目前で散った26年ぶり優勝 甲南大 コロナ禍で見せた一丸と挑戦

[ 2021年5月24日 15:40 ]

<天理大・甲南大 優勝決定戦>5回2死二塁、天理大・吉田元に先制の適時二塁打を浴びマウンドで言葉を交わす甲南大・谷口監督(左)と井村 (撮影・後藤 大輝)
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 【内田雅也の広角追球】試合後、ほっともっとフィールド神戸の観客席通路で表彰式が開かれた。24日にあった阪神大学野球春季リーグ戦の優勝決定戦(プレーオフ)。試合中に降りだした雨が激しくなっていた。

 天理大が優勝旗を受け取った後、甲南大主将・冨士佳資(4年・鳴門)が手にした表彰状には「準優勝」と書かれていた。文字通り「優勝に準じる」と胸の張れる結果だった。

 リーグ戦は9勝3敗、27ポイントで、天理大と並んで1位だった。勝つか引き分けるかで優勝だった23日の大体大戦(南港中央)に敗れ、この日の優勝決定戦に臨んだのだった。

 「よくやったと思います。力は相手が上なのは十分にわかっていました。それでも何とか食い下がっていました」

 谷口純司監督(57)は選手たちをたたえた。スコアは0―2。天理大エースの左腕・井奥勘太(4年・立正大淞南)を打てず、3安打で零敗。三塁も踏めなかった。

 今季5勝無敗だったエースの右腕・井村多朗(2年・徳島城東)は好投だった。5回裏に失った2点が決勝点となった。

 2死二塁で2番・吉田元輝(2年・京都外大西)に3ボール0ストライクとなった。「先に点をやれない。四球でもいい」と慎重に投げたが3―2までいき、勝負にいった低めカットボールを右中間二塁打された。「あの球を拾われた。また勉強になった」

 この春、「打者の反応を見て投げられるようになった。配球を覚えた」と成長を自覚していた井村には、また貴重な経験になったことだろう。

 リーグ戦での天理大戦は相手に新型コロナウイルス感染者が出たため、2試合とも不戦勝だった。「天理に勝ってこその優勝。体が壊れてもいいくらいやろう」と声を掛けていた冨士は「最後にこんな締まったゲームができた」と悔しさ以上に満足感もあった。

 「最後」というのは主将としてのラストゲームだったという意味だ。甲南大では例年、春季リーグ戦が終わると主将を3年生に引き継ぐ。冨士は「秋まで選手として続けますが、主将は退きます。この経験を新チームに伝えて、主将の仕事は終わりです」と話した。

 甲南大最後の優勝は1995年秋季。勝てば、26年、51シーズンぶりの優勝だった。この間、4度の2部降格を味わった。甲南大卒業翌年、1987年に就任した谷口監督は30年以上にわたる浮沈、明暗の歴史を知る。

 昨秋、97年以来のAクラス(3位)となり「優勝」を目標に掲げた今季も「本当の力はなかった」という。「一人一人の力はないが、全員でまとまって、ぶつかっていく気持ちが力になった」

 今季は開幕4連勝。先述したように、天理大戦は不戦勝で6連勝となった。だが、この直後、部内に数人のコロナ感染者が出た。4月20日から行った活動休止は約3週間に及んだ。感染拡大を食い止めようと懸命となった。夜間の外出禁止を徹底。約100人いる部員を10班に分け、各班リーダーが毎晩8時にスマートフォンのテレビ電話で自宅滞在を確認。9時に監督ら幹部に報告した。

 オンライン会議システム「Zoom」で100人と顔を合わせる日々に谷口監督は「いま思えば、あれで結束が強まったかもしれません」と思わぬ効果が出ていた。

 先に近畿学生リーグで全日本大学野球選手権出場を決めていた和歌山大・大原弘監督(55)から「いっしょに神宮にいきましょう」とLINEが入っていた。和歌山・桐蔭の2年後輩だ。オープン戦を行うなど交流があり、今季開幕前にも対戦していた。谷口監督も「そんな話ができるようになるとは……」と夢を見ることができた。

 全日本選手権には1994年に1度だけ出場している。谷口監督は31歳だった。1回戦で熊本工大(九州地区)に5―6で競り負けた。会場は神宮第2球場だった。学生野球の「聖地」神宮球場の舞台は未経験だ。

 夢は続く。敗戦投手となった井村が「この経験を生かして、明日から練習です。秋には神宮に行きます」と、はっきり言った。春雨にぬれる選手たちの顔に「一丸」「挑戦」の文字が浮かんでいた。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。慶大卒。85年入社。2003年、編集委員(現職)。甲南大・谷口純司監督は桐蔭高野球部の1年後輩、実に泥臭い選手だった。

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