【内田雅也の追球】「あの日」に誓う一丸――阪神の現場とフロント

[ 2019年8月13日 08:30 ]

セ・リーグ   阪神1―5中日 ( 2019年8月12日    ナゴヤD )

9回2死、福留が中飛に倒れ試合終了となり、ガックリの矢野監督(中央)(撮影・椎名 航)
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 名古屋入りした阪神球団社長・揚塩健治は「今日はあの日ですね」と漏らした。「今年もまた巡ってきました……」

 520人もの犠牲者を出した日航機墜落事故である。1985(昭和60)年8月12日だった。

 阪神球団社長・中埜肇(なかの・はじむ)が乗っており、御巣鷹山で不帰の人となった。

 中埜は亡くなる前、妻・トシに「秋にはいいことがあるかもしれないよ」と告げていたそうだ。「何かしら」と尋ねる妻に「まだ、口に出しちゃいけないから」とほほえんだと聞いた。監督・吉田義男らチームは「優勝」を禁句としていた。

 前年84年秋、小津正次郎退陣を受け、球団社長に就いたばかり。謹厳実直。「野球は素人」だが、何より愛情と理解があった。

 吉田は監督就任時「あなたのやりやすいように存分にやってください。フロントはバックアップしますから」と激励され「どれだけ心強かったか」と感謝した。中埜も吉田の口癖だった「土台作り」「チーム一丸」を繰り返した。

 コーチだった一枝修平は「訓示する時、普通は“頑張れ”と言うところを“頑張りましょう”という方だった」と話していた。試合後はベンチから引き上げてくる監督、コーチ、選手、裏方の全員に握手を求め「ごくろうさん」と声をかけた。ともに戦っていたのだ。

 今の阪神フロントはどうだろう? オーナー・藤原崇起(たかおき=電鉄本社会長)はもちろん、球団首脳は監督・矢野燿大への支援を約束している。来季続投も決まっている。だが、本当に心に寄り添っているだろうか。

 監督は孤独だ。大リーグの名将、スパーキー・アンダーソンも著書『スパーキー!』(NTT出版)で自宅から出られなくなるほど、ふさぎ込んだ日々を告白している。

 確かに「どうすれば優勝できるか?」といった大きな問題に答えなどない。大切なのは「問い」を共有することではないか。ともに苦しみ、ともに喜べるかどうか。元球団社長・三好一彦が言った「監督とは戦友」となれるかどうかである。

 阪神側に立てば、この夜の試合は、見るべきものがなかった。中日先発の新人、プロ初登板の梅津晃大の速球に押され、そのまま敗れた。

 敗戦後の球団室から揚塩と球団本部長・谷本修が出てきた。苦い顔だった。次いで回ったチームバスには矢野が苦い顔で乗り込んでいた。顔つき同様、思いも同じなら、それが一丸である。=敬称略=(編集委員)

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2019年8月13日のニュース