元巨人・横山忠夫氏、歴史に残った最北端出場 67年網走南ケ丘エースで甲子園

[ 2018年7月25日 08:30 ]

東京・池袋でうどん店「立山」を営む横山氏。右横の写真は立教の先輩でもある長嶋氏
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 【激闘の記憶】第100回全国高校野球選手権大会は8月5日、甲子園球場で開幕する。南・北北海道大会は代表校2校が決定。道勢は1920年の第6回大会に北海中(現北海)が初出場して以降、さまざまな足跡を残してきた。100回大会を前に、その足跡を振り返る「激闘の記憶」を6回にわたって連載する。第1回は、今も最北端の出場校である網走南ケ丘。67年夏の出場時のエース横山忠夫氏(68)に当時の思い出を聞いた。

 北緯44度50秒。網走南ケ丘は100回目を迎える選手権で、今も最北端の出場校となっている。67年夏。横山氏は懐かしそうに笑いながら振り返った。

 横山氏「もう50年も前のことだからなあ。当時は甲子園と言っても“そういうところがあるんだ”という程度で、そこでプレーする感覚なんて全くなかった。冬はずっと雪に閉ざされるし、地名が全国区になったのは高倉健さんの映画、網走番外地(65年公開)からだったからね」

 そんな最北の地から甲子園へ――。北見地区以外の高校と試合する機会などほとんどなく、道外の高校との対戦なんて考えもしなかった時代だった。

 横山氏「今井正監督は数学の先生で野球経験がなく、ボールの握り方から投げ方まで自己流でね。身長が180センチ近くあって丈夫だったから、ただ力任せに思い切り投げるだけだった。トレーニング器具なんかないから、冬場は校庭に水をまいて作ったリンクでスピードスケートをして足腰を鍛えたんだ」

 そんな環境の中で2年秋の全道大会で準優勝。迎えた3年生の夏、網走南ケ丘は快進撃を見せた。エース兼4番の横山氏が北北海道大会3試合で32奪三振。決勝も旭川西に4―1で逆転勝ちした。

 横山氏「1年前の秋になぜかうまい具合に勝ち進んだ。秋にもう一回勝っていたら甲子園(センバツ)だったのか。そう思ったら“こうすれば甲子園に行ける”となってね。ただ、夏は甲子園なんて全く考えず、もう一心にその試合を投げただけだった。でも、網走は大騒ぎだった」

 そんな地元の大声援を受けて関西へ。甲子園での体験も初めてのものばかりだった。1回戦の相手は大分商。後に西鉄(現西武)でプレーするエース河原明を擁し、優勝候補に挙げられていた。

 横山氏「飛行機で東京へ行き、1泊して新幹線で大阪まで。飛行機も新幹線も生まれて初めて乗ったよ。道外のチームと初めてする試合。甲子園に出るチームは凄いな、と。4番打者として河原の球を見て“こんな投手がいるんだ”と驚いた。試合はあっという間に終わったなあ」

 スコアは0―8。完敗だった。試合後、横山氏は控室の片隅で一人号泣した。

 横山氏「報道の人たちは“優勝候補に負けたのに、なぜ?”という感じだったけど、あのときは進路なんて全く考えてなくてね。甲子園で負けて“ああ、これで大好きな野球ができなくなる”。そう思ったらもう、こらえられなかったんだ」

 でも、一瞬の甲子園が人生を大きく変えた。試合を見ていた立大OBの審判員に誘われて立大へ。東京六大学で活躍し、71年ドラフト1位で巨人入り。長嶋茂雄監督第1期政権の75年に8勝した。

 横山氏「甲子園に出てなかったら立大にも巨人にも入っていなかった。甲子園は人生を変えてくれた場所ですよ。最北端というのもいい思い出はなかったけど、八重山商工が甲子園に出たとき(06年)に最南端出場とともに最北端の網走南ケ丘も取り上げられた。50年たっても名前が出てくる。悪くないな、そう思いましたよ」

《取材後記》 横山氏は引退後、東京・池袋でうどん店「立山」を営む傍ら、母校・立大野球部のOB会長を務める。立大野球部出身の筆者にとっての大先輩は、甲子園の“その後の思い出”も語ってくれた。

 プロ4年目、巨人―阪神「伝統の一戦」で2試合連続完封を演じたときのこと。後楽園で完封し、迎えた甲子園だった。中盤に無死一、二塁の大ピンチで打者は主砲・田淵(現本紙評論家)。「もう絶体絶命だよね。それが、内角に投げたら中途半端なスイングでキャッチャー前に転がった」。ボールは捕手―三塁―二塁―一塁と転送されて三重殺。奇跡的にピンチを脱しての連続完封だった。

 「うまくいくときはうまくいくもんだなあ、と。それも甲子園というのがね」。高校時代もプロでも、甲子園は横山氏にとって運命の場所だった。(秋村 誠人)

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