早大元監督・石井氏死去 13年間で4度リーグ優勝“鬼の連蔵”

[ 2015年9月28日 05:30 ]

早大監督時代の石井連蔵氏

 東京六大学野球の早大で監督を務めた石井連蔵(いしい・れんぞう)氏が27日午後、埼玉県さいたま市の自宅で死去した。83歳。茨城県出身。葬儀・告別式は未定。

 石井氏は早大では投手兼一塁手として活躍し、4年時だった54年秋のシーズンは打率・375をマークし、首位打者を獲得した。東京六大学では、1学年上の慶大・藤田元司、1学年下の明大・秋山登と好投手がそろった時代でもあった。社会人野球の日本鋼管でプレーした後、58年に早大監督に就任。翌59年には全日本大学野球選手権で早大初の日本一に導くなど、2度にわたる計13年間でチームを4度のリーグ優勝に導いた。

 60年秋は慶大と激闘を繰り広げ、伝説の「早慶6連戦」として今でも語り草となっている。神宮球場は6試合全て満員で、延べ36万人の観客が集まった。2勝1敗で勝ち点を挙げた早大は、慶大との優勝決定戦に持ち込み、2試合連続の引き分けの末に第6戦を制した。石井氏はのちに「日本中が注目し、私自身もあの6連戦で野球の基本を勉強させていただいた」と振り返った。

 強烈なノックの雨を降らすなど過酷な猛練習を選手に課すことが有名となり、「鬼の連蔵」の異名を持った。主な教え子には近藤昭仁、水口栄二、小宮山悟、仁志敏久、織田淳哉ら、後のプロ野球選手を数多く育てた。94年を最後に監督を退くと、学生野球発展に尽力した。早大の試合を神宮球場で観戦するなど母校への思いは人一倍強かった。

 ◆石井 連蔵(いしい・れんぞう)1932年(昭7)6月26日、茨城県出身。水戸一から早大に進学。4年時に主将。投手兼一塁手で4番。54年に打率.375で首位打者となり、優勝の原動力となった。日本鋼管入社後、58年から63年まで早大監督。その後は朝日新聞社に勤務、88~94年に再び早大を指揮した。96年秋から約2年間、水城で高校野球の監督も務めた。

  ▼小宮山悟氏(元ロッテ投手。2浪して早大に進学し2年秋からエースで通算20勝。4年時の89年は主将を務める)凄く残念です。春のリーグ戦で姿を見ていなかったので、凄く心配していた。石井さんには感謝の言葉しかない。

 ▼織田淳哉氏(元巨人投手。現広報、91~94年早大のエースとして通算33勝)突然の訃報に驚いています。僕の大学野球は石井さんとの出会いなくしてはあり得ません。石井さんとの4年間は今でも僕の財産です。最近お会いできなかったのが非常に残念です。

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