【売野雅勇 我が道15】「歌いたくない」とかたくなに拒んだ中森明菜

[ 2025年8月16日 07:00 ]

「少女A」の直筆歌詞。サビを“いーじゃない”から“じれったい”に変えました

 中森明菜さんは1982年5月にシングル「スローモーション」でデビュー。この曲を作詞した来生えつこさんと、作曲家の来生たかおさんの姉弟コンビが作った「あなたのポートレート」が2作目のシングルの最有力候補でした。

 それを覆したのが明菜さんのマネジャーをしていた角津徳五郎(つのづ・とくごろう)さんの後押しでした。ある日の早朝、いつもなら立ち寄ったりしないワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)に顔を出そうと思いついた角津さんは、そこで明菜さんのレコードを制作していたディレクター・島田雄三さんの机の上に置かれた原稿に目を留めたそうです。号外の見出しのように大きく「少女A(16)」と記された文字の迫力に圧倒され、「イケる!」と直感。「アレンジは上がっているのか?あれば聴かせてくれ」と、仮歌が入ったデモテープを聴き、セカンドシングルに提案したのです。

 レコーディングをする段階になって島田さんから「不良っぽ過ぎる」と歌詞の一部を変えるよう提案され、さらに明菜さんが7月13日に17歳の誕生日を迎えるため「少女A(17)」にタイトルを変更。最終的に「17を削りたい」という要望に応え、82年7月28日に「少女A」が発売されました。

 実は明菜さんは当初「歌いたくない」とかたくなに拒んだそうです。タイトルは明菜の「A」で、歌詞も自分のことを調べ上げて書いたと思い込んだことが理由でした。僕は9年ほど前にその事実を知り、エッ!と驚きました。

 明菜さんには「禁区」や「十戒(1984)」などの作品も作りましたが実際にお会いしたのは、82年10月の2作目のアルバム「バリエーション<変奏曲>」のレコーディングの時、一度きり。歌い出すと詞の世界観を何倍にもできる凄い表現者でした。

 スタジオで向き合った2分間。彼女はずっと下を向いていました。目を合わせることもなく、ひと言、二言くらいしか話さなかったけれど、僕も恥ずかしがり屋なところがあるからイヤな感じはしませんでした。歌手としての強さと、繊細な素の部分。その二面性に気付いたことは「1/2の神話」の作詞の中で生きたと感じます。

 明菜さんの曲がTBS「ザ・ベストテン」などの音楽番組で上位になった時、足利の父から電話がかかってきたことがありました。「お前は調子に乗るタイプだから、ヒットが1曲出たぐらいで会社を辞めるなよ」。その忠告もあり1年ほどはコピーライターと作詞家、二足のわらじで会社にも勤めていましたが、ある日「ヒット作詞家にボツを出せないよ」と親しいクライアントに言われたことで、会社勤めに区切りを付けることに。東急エージェンシーインターナショナル(現フロンテッジ)を辞めて、作詞家として生きていく決意をしました。

 ◇売野 雅勇(うりの・まさお)1951年(昭26)2月22日生まれ、栃木県足利市出身の74歳。企業のコピーライターなどを経て、81年作詞家に。中森明菜「少女A」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」などのヒット曲を生み出した。これまでに1500曲以上の歌詞を制作。2026年に活動45年の節目を迎える。

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