懐かしのシェケナベイベー!はや七回忌

[ 2025年3月14日 16:00 ]

年越しライブのリハーサルに臨む内田裕也さん
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 【佐藤雅昭の芸能楽書き帳】東日本大震災が発生して14年が過ぎた。「小学生でした」「私は中学生。体育館でバスケをしていました」などと振り返る後輩もずいぶん増えた。老いを実感したりする。

 2011年3月11日午後2時46分。あの日、筆者は東京・千代田区の帝国ホテルでロックンローラー内田裕也さんを取材していた。激しい揺れに取材どころではなくなった。「社に戻ります」と断ってその場を後にしたが、エレベーターは使用不能。10何階だったと記憶しているが、階段で1階まで下りた。壁のところどころにひびが入っていた。

 交通網はズタズタ。電車も運転を取り止めていた。もちろんタクシーも拾えない。断続的に余震が起こる中、とりあえず帝国ホテルから銀座の東映本社に向かった。宣伝部にたどりついて一息ついたが、そこにまたグラリと比較的大きくて長い余震。生きた心地がしなかったが、宣伝マンたちの無事を確認し、互いに励まし合った後、スポニチ本社がある江東区の越中島を目指して歩き始めた。

 銀座4丁目から晴海通りを築地方面に向かい、新大橋通りを左に曲がって佃大橋を渡る。最初の月島の出口で下りて清澄通りを左折。今度は相生橋を渡ってしばらく真っ直ぐ歩き、越中島通りを右に曲がって5分ほど。ようやく本社ビルに到着した。下谷の山崎町から麻布絶江釜無村の木蓮寺に至る、落語「黄金餅」の言い立てではないが、到着したときには筆者もずいぶんくたびれた。

 地震による揺れと津波…刻々と被害状況が判明していくにつけ「これは大変なことになった」とぼう然とするばかりだったが、その後に起こった福島第1原発事故が拍車をかけて「いったいどうなってしまうのだろう」と不安に駆られたことを鮮明に覚えている。

 裕也さんは「英語にすればロックンロールだ」と被災地の宮城県石巻市に食料や水を運搬するなど精力的に支援活動を展開した。兵庫県西宮市の出身。1995年の阪神・淡路大震災の時も特別ライブや炊き出しなどを率先して行った。

 その活動は国内にとどまらなかった。前年の94年には非政府組織(NGO)の活動の一環として盟友の故ジョー山中さんとアフガニスタンに飛び、困窮する人々のために米などの食料を配布してきた。昨年の能登半島地震や今年の岩手県大船渡市の山林火災も天国で気をもんでいたに違いない。

 裕也さんは東日本震災発生の翌年から21年まで3月11日に東京・千代田区の国立劇場で営まれた追悼式にも参列し、手を合わせた。筆者も毎年同行したが、不死身に見えたロックンローラーも病に倒れ、19年の3月17日に79歳で旅立ってしまった。妻の樹木希林さんが75歳で亡くなったのが前年18年の9月15日。それから約半年を経ての悲報だった。港区内の墓で希林さんと仲良く眠る裕也さん。早いものでことし七回忌―。

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