桂歌丸の教え。その弟子・歌助の述懐

[ 2017年10月13日 10:30 ]

落語家の桂歌丸
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 【笠原然朗の舌先三寸】落語家・桂歌助さんに「前座」時代の話を聞く機会があった。

 歌助さんは桂歌丸の二番弟子。東京理科大学理学部数学科卒の変わり種。高校の数学教師を目指していた中で、「教壇に立つからには話が面白くないと…」と図書館で借りた落語のテープを聴いたのがきっかけで、落語にハマった挙げ句、本業にしてしまったという奇特な人だ。

 歌丸の二番弟子ではあるが、兄弟子の歌春は、師匠・桂枝太郎死去にともなっての“転籍”で、歌助さんは直弟子第1号となる。

 落語の世界は、師弟関係がベースにあって、師匠が亡くなった場合や、あるいは師匠をしくじった場合、つまり師匠と気が合わない、弟子が粗相をしたなどの理由で師弟関係を解消することもある。その場合、弟子が真打ちになる前なら、新しい師匠に弟子入りしなければならないルールがある。歌丸も古今亭今輔から桂米丸へ師匠を替えた“転籍”組だ。

 さて歌助さんの前座名は「歌児」。当時は5年目の大学4年生で、大学生と落語家の二足のわらじを履いていた。

 歌丸の教えは、シンプルで「噺家はお客様を楽しませて木戸銭をちょうだいする仕事。あとは何をやってもいいようなものだが、お金と時間のことをきちっと守れば食べてはいける」だった。

 「人からお金は借りるな。借りるなら俺から借りなさい」とも。師匠の今輔のもとを去り、米丸師匠に拾ってもらうまで、化粧品販売などをして辛酸をなめた歌丸ならではの話だ。

 「見込みがなければクビにするよ」と言ってはいたが、落語がどうの、というより「どういう人間か」を見ていたのだろうと歌助さんは言う。

 入門するに当たって聞かれたのは「オチケン(落語研究会)に入っているのか?」と「特定の宗教に入っているか?」で、歌助さんはどちらも「いいえ」。歌丸はそれを聞いて「その方がいい」と答えた。まっさらな布の方が自分色に染めやすいと思ったのか?

 稽古も「私がやる通りやってごらん」。

 ところが「その通りなんてできないんですよ。師匠は一息が長くて、同じ調子でテンポよく最後までしゃべる。誰もまねできないと思いますよ」と歌助さんは話した。

 歌丸との師弟関係について、歌助さんは「師匠がカラスは白いと言えば白い、そんなものです」とたとえ話を交えて話す。師匠のあらゆる理不尽は入門した段階から織り込み済み。師匠に対しての口ごたえや反論は許されない。

 歌丸が課したのは「前座時代は酒を飲んではいけない」というルール。歌丸は酒は一滴も飲まない。

 「1年ぐらいは飲まなかったけど、2年目からはこっそり飲んでましたよ」。新潟県十日町市出身の歌助さんは、所属する落語芸術協会でも指折りの左党だ。

 前座の修行はおおよそ4年。それまでは師匠の身の回りの世話や、寄席や落語会での雑用を滅私奉公で行わなくてはならない。そこで落語家の土台を作りあげる。

 「二つ目」に昇進して初めて独り立ちするが、経済的保証も何もない10〜11年を過ごし、真打ち昇進。とは言うものの「真を打った」からと言って経済的に保証されるわけではない。

 歌助さんは寄席に、各地で行う落語会、落語教室の講師などを務め多忙な日々を送る。

 「いまの僕があるのは師匠のおかげ。僕の首から下を作ってくれたのは両親、その上は師匠ですよ」と話す。

 いま落語ブームだという。落語家の数だけ師弟の物語がある。(専門委員)

 ◆笠原 然朗(かさはら・ぜんろう)1963年、東京都生まれ。身長1メートル78、体重92キロ。趣味は食べ歩きと料理。

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