オマリー元ド軍会長 長嶋茂雄氏追悼 出会いは米キャンプ「絆を深め、60年以上続く友情を育みました」

[ 2025年6月3日 12:15 ]

ピーター・オマリー元ドジャース会長(左)と長嶋茂雄さん
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 プロ野球の巨人の三塁手として活躍し、引退後は巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが3日午前6時39分、都内の病院で肺炎のため死去したと読売新聞グループ本社、読売巨人軍などが発表した。89歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は次女・三奈(みな)氏。後日、お別れの会を開くという。

 ドジャースの元会長で生前に長嶋さんと親交が深かったピーター・オマリー氏(88)は2日(日本時間3日)、関係者を通じて声明を発表。「長嶋茂雄さんの訃報に接し、大変悲しく思います。初めて会ったのは、1961年の春、フロリダ州ベロビーチのドジャータウンでの春季キャンプでした。父から『東京巨人の世話をしてくれ』と言われ、私は彼らの到着から出発までの全ての手配を担当することになりました。その時から私たちは絆を深め、60年以上続く友情を育みました」と長嶋氏との出会いを振り返った。

 また「1967年と1971年には、長嶋さんと巨人軍がドジャータウンで春季キャンプを行い、両シーズンとも日本シリーズで優勝しました。1975年には、長嶋さんが巨人軍の監督として初めてドジャータウンに戻ってきました。私たちは国際的な野球について多くの時間を共有し、その後も東京で彼に会うたびにその話は続きました。長嶋さんのご家族と、日本中の多くの野球ファンに心よりお悔やみ申し上げます」と悼んだ。

 長嶋さんは22年9月に自宅で転倒して脳内から出血し、都内病院に入院。慎重に治療を続けながらも、昨年は愛弟子の巨人・阿部監督の激励のため、東京ドームを何度も訪れていた。阿部監督も「球場に来ると元気になる。生きがいなんだなと。うれしい」と感謝していた。

 長嶋さんは1936年(昭和11年)2月20日、千葉県・佐倉市出身。東京六大学野球の通算最多本塁打(当時)記録を引っ提げ、58年に立大から巨人に入団。開幕戦で国鉄・金田正一投手の前に4打席4三振のデビューとなったが、ルーキーイヤーに打率3割5厘、29本塁打、92打点で本塁打と打点の2冠に輝き、新人王を獲得。2年目の59年6月には天覧試合で阪神・村山実投手からサヨナラ本塁打を放ち、プロ野球人気に火を付けた。

 首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度獲得し、65年から73年までの巨人の9年連続日本一に貢献し、「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」と呼ばれ、王貞治一塁手との「ONコンビ」は、野球界の顔として国民的な人気となった。最優秀選手5回、日本シリーズMVPも歴代1位の4回選ばれ、ベストナインは17回選出。入団から引退まで選ばれた唯一の選手だった。74年「わが巨人軍は永久に不滅です」という名言を残し、背番号「3」を永久欠番にして17年の現役生活を終えた。現役時代の通算成績は2186試合出場、2471安打、444本塁打、1522打点で打率3割5厘。

 引退翌年の75年に監督に就任したが、巨人は初の最下位に。翌76年に張本勲外野手らを補強し、リーグ優勝を果たし、77年も優勝。しかし2度とも日本一を逃すと、78年から80年までは優勝できず、80年10月に解任。以後、93年に監督に復帰するまで、五輪取材などで多忙な日々を送った。

 93年に監督に復帰。94年10月8日に同率首位の中日との最終戦を制して優勝。日本シリーズで西武に勝ち、監督して初の日本一に輝いた。2000年にダイエー・王監督との「ON決戦」を制し、2度目の日本一になると01年に勇退。監督としての通算成績は1982試合、1034勝889敗59分、勝率5割3分8厘だった。

 02年にアテネ五輪野球日本代表の監督に就任したが、翌年に脳梗塞で倒れ入院。以後、リハビリを続け、13年に元巨人の松井秀喜氏とともに国民栄誉賞が授与された。

 野球を国民的スポーツへと押し上げた最大の功労者がこの世を去った。

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