【内田雅也の追球 ワイド版】祝祭空間と化した100歳の甲子園 今も、みずみずしい青春を生きていた

[ 2024年8月2日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神9―2巨人 ( 2024年8月1日    甲子園 )

甲子園球場
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 甲子園球場が100周年を迎えた。1924(大正13)年の建設当初、夢に描いた「聖地」として、多くの人びとに愛されてきた。紀寿100歳の誕生日に行われた「伝統の一戦」は阪神の快勝で、甲子園は祝祭空間と化した。大歓声は多くの先人への鎮魂歌となった。甲子園は今もみずみずしい青春を生きていた。

 阪神監督・岡田彰布に今季一番の快勝かと問うと「まあなあ」と笑った。甲子園球場100周年を「みんな分かっていたこと」と必勝を胸に秘めていた。そして「この3連戦の大事さもみんな分かっていた」と選手たちをたたえた。紀寿100歳を祝う勝利だった。

 ポイントは5回裏2死一、二塁。打席に前川右京が向かう際、巨人ベンチを出ようとした投手コーチを戸郷翔征が右手で制した。直前に大山悠輔にストレートの四球。タイムでひと息入れようとしたが断ったのだった。

 勝負どころ、前川は打った。内角スライダーを得意の巻き込むようなスイングで右翼線に適時打した。表に1点を返された直後、貴重な追加点となった。1回裏2死満塁でも右前へ先制2点打。戸郷攻略の主役だった。

 100年の節目。歴史を彩った先人が思い浮かぶ。戸郷は沢村栄治だ。5月24日のノーヒットノーラン。巨人投手がこの甲子園で達成するのはプロ野球初年度1936(昭和11)年9月25日の沢村以来88年ぶりだった。

 ならば21歳と若い前川は藤村富美男だろうか。36年当時20歳だった。後の「ミスター・タイガース」である。

 映画『フィールド・オブ・ドリームス』で主人公の農場主は「それをつくれば、彼はやって来る」と謎の声を聞く。トウモロコシ畑に野球場をつくると“シューレス”ジョー・ジャクソンら1919年の八百長事件で永久追放された選手たちが現れ出てくる。

 甲子園もそんな場所である。現存する日本最古の野球場は土も芝も蔦(つた)も銀傘も……昔と変わらぬたたずまいで美しい。野球人の「聖地」、心のふるさとなのだ。

 沢村は3度の応召、出征の末、乗船した輸送船が撃沈された。44年12月2日、27歳だった。中国の野戦病院でタイガースの小川年安と顔を合わせ「忘れていた野球を思い出した」と恋しくなった。

 沢村を妻の視点で描いた虫明亜呂無(むしあけあろむ)の小説『風よりつらき』にある。<男は何回この世に甦(よみがえ)ることだろう。栄治は野球が盛んになれば、ますます、この世に復活し、やがては永遠の生命を勝ちえるにちがいない>。野球人は人びとの記憶とともによみがえる。特に甲子園に帰ってくるのである。

 プロ野球は沢村が投げ、景浦が打って始まった――と言われる。景浦将はタイガースの主砲だった。その景浦も45年5月20日、フィリピン・カラングラン島で逝った。高熱をおして部隊の食糧調達に出かけた山中で不帰の人となった。29歳。今の大山の年齢である。

 阪神初代主将・松木謙治郎は戦後、監督として何度も景浦が帰ってくる夢を見た。玄関口に立っていた。苦しい状況に「チームに猛虎魂を植えつけてくれる人がほしかった」と恋しがった。

 野球への思いを残したまま逝った戦没した野球人、志半ばで球界を去った野球人たちの魂が100周年の甲子園に帰ってきていた。

 試合前のセレモニーでは渡辺謙が音頭を取り、スタンドの大観衆とともに「コウシエン!」と叫んだ。AIが歌った「笑って笑って愛(いと)しい人」は先人への語りかけに聞こえた。5回終了時には「ハッピー・バースデー、コウシエン」と歌い大合唱となった。鎮魂歌だった。「超満員プロジェクト」でアルプスの座席幅を狭め、5年ぶりの4万7千観衆となった場内は祝祭空間と化していた。

 100周年に合わせた巨人3連戦は3連勝で最高のフィナーレとなった。もう、首位まで0・5差である。

 「打倒巨人」。江夏豊も田淵幸一も甲子園で過ごした阪神での日々を「青春時代だった」と口をそろえる。後にトレードで放出されるが、今となっては懐かしい。V9巨人に向かい、敗れ続けた。そのDNAは今も猛虎たちに宿っていよう。

 <青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう>とサムエル・ウルマンの詩『青春』にある。<年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる>

 岡田は言う。「誰もが憧れ、夢を抱く場所。これからも甲子園は甲子園よ」。甲子園はまだ理想を追い求めている。100歳を迎えた今も青春を生きていた。 =敬称略= (編集委員)

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