新庄は阪神時代から「親分肌」だった 「ビッグボス」の原点 正義感と人情味に期待する

[ 2021年11月5日 15:15 ]

ハワイウインターリーグ、ヒロ・スターズに参加していた当時の阪神・新庄(右=現日本ハム監督)と北川(現阪神打撃コーチ)=1996年10月24日撮影=
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 【内田雅也の広角追球】「ビッグボス」と自称した日本ハム新監督・新庄剛志の就任会見を眺めながら、四半世紀前の言葉を思い返した。

 1996年11月13日。プロ野球ゴールデングラブ賞の発表があり、セ・リーグ外野手部門で当時阪神の新庄が選ばれた。チームは2年連続の最下位でどん底にあったが、新庄は自慢の守備力が評価され、2年ぶり3度目の受賞だった。

 ハワイウインターリーグ、ヒロ・スターズに派遣されていた新庄に受賞の感想を聞こうと、ハワイ島の宿泊先ホテルに国際電話を入れた。肌寒い夜の甲子園球場記者席からかけた。

 新庄は「本当ですか!?」と驚き、素直に喜んでいた。左手首への死球打撲など故障で17試合欠場しており「今年は無理と思っていました。面倒をみてもらったコーチやトレーナーの方々に感謝しています」と話した。

 10月14日にハワイに渡り1カ月。久しぶりの会話は弾んだ。新庄はよくしゃべった。会社経費とはいえ、30分以上話し続け、電話代が気になった。

 前年95年シーズン途中の監督交代劇(中村勝広―藤田平)、同年オフの「自分にはセンスがない」との引退発言騒動。96年シーズン終盤での藤田監督解任、吉田義男監督の就任……と「暗黒時代」の激動の日々を振り返った。

 「勝ちたい」という思いから球団やチームへの不満が募っていた。そして、こう言ったのだ。

 「僕ね、こう見えても親分肌なんですよ」

 意外な言葉に「え?」と聞き返した。「ですから、親分肌です」当時24歳。「プリンス」と呼ばれた彼には似つかわしくない言葉だった。

 「周りのみんなが僕にチームに対する不満を言いにくるんですよ。ボクが代表して球団に訴えるんです。だから親分肌でしょう」

 内部規律や練習方法の改善点など、選手たちの意見をまとめ、球団に申し入れる。まだ若手だった新庄はそんな役どころだったそうだ。面倒見がよく、頼られる存在。確かに親分肌だと言える。

 当時、選手たちから選手会長に推薦されていたと、大リーグ・メッツ入りした2001年4月に出した著書『ドリーミングベイビー』(光文社)で明かしている。先輩たちから何度か「おまえが言えば、話が通るんじゃないか。選手会長になって球団にいろいろ文句言ってやれよ」と言ってきた。<皆が球団に対するもやもやとした不満を僕にぶちまけていた。僕が球団代表とかに、意見を直接言う人間だったからだと思う>。

 こうした球団への直言も「勝ちたい」という純粋な思いからきたものだ。<僕はタイガースで優勝したかった。優勝してみんなが喜んでいる姿を見たかった。そこには僕もいて、みんなとワイワイ騒いでいる。それを一度はやりたかった>。

 当時交際中で後に結婚するタレント・大河内志保が昨年11月に出した著書『人を輝かせる覚悟』(光文社)で<彼が素晴らしいのは、決して人の悪口を言わないところ>と記している。<人の失敗を喜ぶようなところも一切ない><そして嫉妬もしません><他人にへつらったりもしません>。

 そんな純粋さ、素直さ、さらに正義感の強さが親分のような信頼感を呼んでいた。

 4日の監督就任会見で報道陣に配布した名刺の肩書は「ビッグボス」だった。「監督と呼ばないで、ビッグボスでお願いします」と呼びかけた。バリ島で暮らしていた当時の呼び名だそうだ。
 そんな「大親分」の原点は阪神での若き日々にあったのだと思い返している。

 阪神担当キャップのころに1軍デビューした彼のメッツ入りに合わせ、2001年4月に渡米、開設したニューヨーク支局で大リーグ取材を続けた。帰国を前にした03年4月、シェイスタジアムのロッカーで別れを告げると、普段着ていたメッツTシャツと「tsu」(ツー)と書いたサインボールをもらった。ぽ~んと放り投げて「グッドラック」と笑っていた。思えば、あれも親分らしい行動だった。

 宇宙人、超人類……などと呼ばれたこともあったが、内面は非常に繊細で人情味にあふれている。よくぞ、野球界に戻ってきてくれた。何とも懐かしく、大いに楽しみにしている。 =敬称略= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(和歌山)―慶大卒。ニューヨーク支局から帰国後の03年4月から編集委員(現職)。大阪本社発行紙面で07年から掲載のコラム『内田雅也の追球』は15年目のシーズンを終えようとしている。

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