「栄冠はわれに」で撮った写真 謙虚でやさしく、明るかった福嶋一雄さん

[ 2020年8月28日 15:20 ]

母校小倉高校庭に立つ「栄冠はわれに輝く」の記念碑と福嶋一雄さん(2004年6月4日撮影)
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 【内田雅也の広角追球】福嶋一雄さんが亡くなった。旧制小倉中・小倉高のエースとして戦後間もない1947(昭和22)、48年と夏の甲子園大会を連覇した。48年は全5試合完封の偉業を成し遂げている。

 小倉高野球部OB会「愛宕クラブ」の前幹事長・広崎靖邦さん(78)によると、今月初め、入院を知らせる電話があったそうだ。
 「毎日暑いし、ウイルスもあるし、この夏はちょっと病院で涼んでこようと思うんだ」

 そう言って、今月15日に北九州市立医療センターに入院。27日、息を引き取った。十二指腸がん、89歳だった。

 初めてお会いしたのは2004年6月4日だった。大阪本社発行紙面で連載していた『80歳甲子園球場物語』で、有名な土の伝説を取材するため、小倉に出向いた。

 実に気さくで明るい方だった。48年夏の決勝で対戦した桐蔭(和歌山)野球部の後輩だからだろうか。小倉、桐蔭は決勝の縁でその後も交流を続けていた。当時41歳。福嶋さんにはまだまだ若造の記者を「遠いところ、よく来ていただいた」と歓迎してくれた。

 母校・小倉高グラウンドを訪ね、「ああ 栄冠は われに輝く」と刻まれた2連覇記念碑(1988年建立)で写真を撮った。夏の全国高校野球選手権大会の大会歌『栄冠は君に輝く』が完成、発表されたのが連覇達成の48年だった。記念碑は「君に」を「われに」と変えて誇らしい。

 謙虚で自慢話など一切しない福嶋さんである。記念碑のそばで何度もポーズを取るというのは精いっぱいのサービスだったのだろう、と思い返す。

 大会歌の作曲は古関裕而。今春スタートのNHK連続小説(朝ドラ)『エール』の主人公だ。新型コロナウイルスの影響から番組は休止中(9月14日再開)で、物語は大会歌作成の下りまで至っていない。「甲子園がぼくの青春だった」と話していた福嶋さんも楽しみにしていたのではないだろうか。

 学校から自宅に戻り、「こんなポーズでいいかな」と甲子園の土をまいたゴムの木の鉢植えで写真を撮らせてくれた。

 「あとの話は場所を変えてやりましょう」と連れられたのはスポニチ西部本社の社長室だった。「病気仲間」という片山健一社長(2009年、68歳で他界)を誘い、夕方4時、行きつけだという小料理屋に入った。「まだ日は高いけどね。この店は窓がないからいいんだ」と笑って、ビール、焼酎で乾杯した。「がん自慢」だと言って、シャツをたくしあげ、2002年の肺がん手術痕を見せて笑った。がんと真っ向から闘い、明るく前を向く。不死身のように思っていた。

 2010年6月12~13日には小倉高野球部創部100周年の記念行事でわが和中・桐蔭野球部OB会も招待を受けた。現役同士の記念試合の前に始球式があり、福嶋さんと捕手・原勝彦さん(今春3月12日、89歳で他界)のバッテリーに打席には当時の桐蔭3番センター、松嶋正治さん(89)が立った。福嶋さんの投球はゴロで、ころころと転がる球だった。見事に空振りした松嶋さんは地元マスコミの前で「昔のように、地をはうような球でした」と言って喝采を浴びた。

 後日、原さんから手紙が届いた。福嶋さんには電話で「恥をかかせたなあ」と謝ったという。「福嶋君は山なりでもノーバウンドで投げられた。右目が見えづらくなっていたわたしの頼みで、あのような珍しい始球式になってしまったのです」投球のことなど全く頓着していないようにしていた福嶋さんのやさしさを思った。

 2013年1月11日には野球殿堂入りを果たした。同年8月15日、甲子園球場での表彰式は、1949年夏、準々決勝で敗退後、無意識に土を拾ってポケットに入れたバックネット前で行われた。

 あらためて土の逸話を書いておきたい。3連覇の夢破れ、小倉に帰ると大会審判副委員長の長浜俊三氏から速達が届いた。健闘をたたえ「栄光の道を歩んできた者は挫折を味わうと自暴自棄になり、道を誤ることがある」としたうえ「君のユニホームのポケットに大切な物が入っている」と書かれていた。

 そのままだったユニホームを出し、新聞紙を広げて振ると土がこぼれ落ちた。「この土でしょうか」と返信で問うと再び速達が届いた。

 「それが君の青春の結晶だ。土には甲子園が教えてくれた喜び、悲しみが染みこんでいる。今後の人生をその土とともに生きてほしい」

 胸が熱くなった。土は母・房子さんの進言で庭にあったゴムの木の鉢に混ぜた。木や鉢は何度か入れ替えたが土はずっと一緒だった。

 逸話は全国に広まり、「土の持ち帰り第1号」とも呼ばれた。だが福嶋さんは「わたしが最初ではありません」ときっぱり否定していた。「戦前から多くの選手がユニホームやスパイクに着いた土を郷里に持ち帰っています」

 巨人V9監督の川上哲治氏は熊本工のエースとして1937年夏の決勝で中京商(現中京大中京高)に敗れ、ベンチ前の土をすくい、右足靴下に入れたと伝わる。土は熊本・水前寺球場にまいたという。

 「土は自分にとっては宝でも他人には意味がありません。袋に詰めて持ち帰るのはどうも……」

 儀式のように、お土産のように持ち帰る風潮を疑問視していた。

 「長い人生、どんな逆境にあっても、この木と土を見ると奮い立ってきました」

 「青春の結晶」とともに歩んだ人生の幕は静かに下りた。今ごろは今春3月に他界した原さんとも再会していよう。どうか、安らかにお眠りください。  (編集委員)


 ◆内田 雅也(うちた・まさや)1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭(旧制和歌山中)での現役時代はノーコン投手で拙守の三塁手。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。母校に伝わる小倉との決勝戦の逸話。桐蔭捕手だった広谷勲さん(故人)は試合前にマスクが壊れ、小倉の原さんから借りて交互に使った。そのマスクは毎回、きれいに本塁上に置かれていた。見ると、原さんが手ぬぐいで汗や土をふき取っていた。対戦相手への思いやり、マナーを学んだと広谷さんは繰り返していた。

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