【内田雅也の猛虎監督列伝(13)~第13代・杉下茂】譲られた監督の座を追われる「悲しい真実」

[ 2020年5月2日 08:00 ]

1966年4月17日、1失点完投で巨人・城之内に投げ勝った村山実(左)を祝福する杉下茂監督
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 現役時代、中日一筋だった杉下茂が指導者として阪神入りしたのは藤本定義の勧誘だった。1963(昭和38)年秋、帝京商業(現帝京大高)、中日でともに監督だった天知俊一に「ちょっと出てこい」と呼ばれ、東京・新橋の料亭に出向くと藤本を紹介された。

 天知は言った。「スギな、オレの野球はなかなかいいが、この藤本さんの野球はすごいよ。一度修行をして来なさい」すでに阪神投手コーチが決まっていた。『阪神タイガースヒストリー・トレジャーズ』(ベースボール・マガジン社)でインタビューに答えている。

 着任前の63年12月、阪神は「世紀のトレード」で小山正明を放出。杉下が穴埋めに目をつけたのがジーン・バッキーだった。解雇を検討する球団社長・戸沢一隆に「鍛えてダメならクビにしましょう」と訴えた。「特訓に次ぐ特訓。あれほどやらせたのは僕としては珍しい」。64年、バッキーは29勝をあげ優勝に貢献、沢村賞を獲得した。

 65年は肩書がヘッドコーチとなり、村山実が最多勝に沢村賞、バッキー18勝、チーム防御率2・47はリーグ最高と投手陣は結果を残した。だがチームは3位。オフには監督交代が待っていた。

 10月28日、大阪市北区の中華料理「新北京」での納会でオーナー・野田誠三(電鉄本社社長)が杉下の監督昇格と藤本の総監督就任を発表した。先の書などで杉下は「オーナーがいきなり言った。僕は何も知らなかった」と語っている。

 しかし、当時のスポニチ本紙を読めば少し事情が違う。10月初旬、持病のリウマチ悪化など体調不良で藤本が辞任を申し入れ、野田も了承。藤本は同年、球団取締役にも就いていた。後任については23日、川崎での大洋戦の後、定宿・清水旅館で戸沢、スカウト・佐川直行、藤本、杉下の<実力四者会談>で杉下昇格が内定していた。杉下自身も「最後の東京遠征で聞いた」と語っている。

 藤本は著書『覇者の謀略』(ベースボール・マガジン社)で冒頭に書いた天知との話について<必ず杉下を男にするからと頼んできてもらった><第一線を退こうというとき、天知さんとの約束通り、杉下に監督を譲った>と既定路線だった。

 66年、監督・杉下は苦しんだ。就任時、野田から「若手登用」「世代交代」を厳命されていた。前年秋、初めて開かれたドラフトで獲得した藤田平(市和歌山商)はその代表例だが、遊撃には吉田義男がいる。藤田に三塁を守らせるなど苦慮した。若手起用にベテランからは不満が聞かれた。

 杉下の自伝『フォークボール一代』(ベースボール・マガジン社)にある。<ベテランを使って負けると、すぐオーナーのお呼びである。推参すると「なぜベテランを使った」とお叱りを受ける。側で総監督の藤本さんはにやにやしている。これには心底参った>。

 開幕から連敗が目立ち最下位にも落ちた。「死のロード」に入ると球団ワースト(当時)の8連敗を喫した。8月11日の巨人戦(後楽園)に敗れ50敗に到達。球宴明けは2勝14敗の惨状だった。

 夏の全国高校野球選手権が開幕した12日、野田が招集し、甲子園球場内会議室で極秘会談が開かれた。本社副社長・福西清も同席し、戸沢、藤本、佐川と計5人。野田は「名門タイガースに恥じぬ試合をするように」と伝えた。杉下更迭と藤本復帰が決まった。

 チームは移動日で東京から新幹線と特急を乗り継いで広島に向かっていた。移動中、コーチとベテラン選手を展望車に集め「いかにすれば現状を打破できるか」と4時間話し合った。杉下は「この遠征は大収穫だった。皆、いい意見を述べてくれた」とご機嫌だった。

 翌13日朝、広島の定宿、吉川(きっかわ)旅館で杉下は電話で起こされ「休養」が伝えられた。玄関先で見送ったのは三宅秀史、村山実、若生智男の3人だけ。球団からは広島駅午後0時10分発の特急「はと」に乗るようお達しまであった。本紙記者・田中二郎は<悲しい真実>と書いた。<発車後三十分して同じプラットホームに藤本総監督が着いた><両者が顔を合わさぬことこそ球団の親心と解釈すべきか>。

 藤本は背広を着た取締役総監督からユニホームに着替え、同日の広島戦から指揮を執った。61年の金田正泰更迭時同様、シーズン中の就任だった。老かいで「伊予の古だぬき」と呼ばれた藤本にとって、これも筋書き通りだったか。

 杉下は同日夜、東京・杉並の自宅に帰り「負ければ賊軍ですよ」と静かに語り、身を退いた。=敬称略=(編集委員)

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