照ノ富士 部屋閉鎖、転籍…苦境越え出世 周囲必死のサポート

[ 2015年5月28日 11:15 ]

11年5月、前相撲で勝ち名乗りを受ける照ノ富士(当時は若三勝)

 来日してから4カ月後の10年8月。沖縄高校総体団体戦で照ノ富士は補欠ながら鳥取城北高の秘密兵器として初めてメンバー入りした。決勝トーナメントから中堅として出場。準々決勝の強豪・埼玉栄戦では1―1の状況で蘇(いける)堅太(現幕下・蘇)を撃破した。石浦監督は「何かを変えてくれると思って使った。起死回生だった」と言う。勢いに乗ったチームは優勝。ガンエルデネ(本名)の名はプロにも広まった。

 そして石浦監督の元に一本の電話が入る。間垣親方(元横綱・2代目若乃花)からのスカウトだった。事業に失敗した両親を助けるため、本人もプロ入りを望んだ。迎えた12月20日。クラスメートが贈ってくれたニット帽を手に教室の壇上で「自分は大相撲に入って夢を絶対にかなえるので、みんなも残りの高校生活で夢をかなえて」と日本語であいさつし、上京した。

 しかし、待ち受けていたのは厳しい現実だった。就労ビザを取得できた11年5月にデビューして丸1年で幕下上位に上がったが、そこから足踏み。原因は環境だった。病気を抱える師匠が稽古を見ることができず、力士は3人に。経営も悪化し、十分に食料が確保できなかった。同部屋だった呼び出し・照矢は「何とか鍋だけはつくろうとみんなで努力した。稽古も今の付け人の駿馬が真面目なので“やろう”と声掛けした」と説明。入門から2年が経過し160キロあった体重は5キロ減った。悩めるホープに苦しい環境を乗り切らせようと周囲が必死にサポートした。

 そんな時に伊勢ケ浜部屋に転籍。環境に恵まれて才能は開花し、わずか2年で大関となった。厳しい稽古に耐えられるのは、人生には苦難があることを知っているから。狙うは頂点。富士の上から照らす太陽になる日は、そう遠くない。(特別取材班)

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2015年5月28日のニュース