甲子園を愛し、愛された男 “元祖プリンス”現役最後はタテジマで「幸せな野球人生だった」

[ 2022年3月8日 07:00 ]

<猛虎の血>84年2月、安芸キャンプでグラウンドコートを羽織る太田幸司

【猛虎の血-タテジマ戦士のその後-(14) 太田幸司さん】

 甲子園とは切り離すことのできないプロ野球人生のラストは、やはり阪神だった。甲子園が生んだレジェンドが太田幸司(70)だ。三沢のエースとして、伝説の延長18回の決勝戦を投げ抜き、空前のブームを起こした太田は、プロでも注目に応えようと投げ続けた。阪神在籍は1シーズンだけだったが、タテジマでの出会いが第二の人生に欠かせないものとなった。

 甲子園を背負った野球人生だった。引き分け再試合となる延長18回を投げ抜いた三沢のエース。その存在は今も伝説として残る。以後、多くの超高校級の投手が現れ、プロ野球を盛り上げ、メジャーにも渡っていったが、「元祖プリンス」の座は不動だ。

 69年夏の甲子園。人生の大きなターニングポイントとなった。明星、平安という近畿の強豪校を退け、東北勢として戦後初の決勝に進出。「コーちゃんフィーバー」は社会現象となり、松山商との決勝で262球を投げ抜いたとき、その沸騰は頂点に達した。

 「青森の田舎の公立高校の生徒ですよ。なのに、甲子園で試合をするたびにバスが凄い人に取り囲まれる。宿舎の垣根を越えて、女の子が近づいてくる。とてもじゃないけど、現実が受け入れられなかった」

 “青森県 太田幸司様”でファンレターが届く。段ボールで運ばれる手紙を両親が丁寧に仕分けしていた姿を思い出す。山のような郵便はドラフト1位で近鉄に入団後も続いた。選手にとって夢の舞台であるはずの球宴も太田にとっては重荷でしかなかった。成績が伴わないのに、ファン投票1位が指定席。これがつらかった。だが、迷い道の中で力を与えてくれたのは再び甲子園だった。3年連続で球宴出場した72年の第3戦で先発。思い出の舞台で全セ・江夏豊と投げ合った。

 「投球の幅を広げるためにシュートとスライダーに取り組んでいた。3回のピンチで王さんをスライダーで遊飛。長嶋さんをシュートで二ゴロ併殺に打ち取れた。これが自信になった。プロでやれる手応えを甲子園でつかんだんです」

 翌73年、全パ・西本幸雄監督は監督推薦で太田を球宴に呼んだ。ファン投票の呪縛から解放されたのだ。近鉄で58勝をマークした右腕は晩年、右肩痛に苦しみながら、巨人、そして阪神とユニホームを変えた。

 「村山さんが好きだったし、最後も甲子園で終われたのは幸せな野球人生だったと今でも思う。阪神のユニホームを着たからこその出会いもあった」

 ラストシーズンの84年、マウイキャンプにも選ばれ、翌年に優勝を果たす掛布雅之、岡田彰布らとの交流を深めた。安藤統男監督とはその後、MBSの解説者として長い時間をともにした。2軍で7試合登板という数字だけに終わったが、太田の第二の人生にとって、阪神での1年間は大きな財産になった。

 引退後に情熱を傾けたのが、野球の底辺拡大を目指した女子野球だった。10年にスタートした日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーとして活動に参加。17年には「甲子園進化論~女子の力で変わる未来の甲子園」を出版した。昨年の夏には全国高校女子硬式野球選手権大会の決勝が甲子園で開催。女子プロ野球から育った三浦伊織がタイガースWomenのキャプテンを務めるなど、まいた種は着実に広がっている。甲子園とつながる野球人生はまだ続く。=敬称略=(鈴木 光)

 ◇太田 幸司(おおた・こうじ)1952年(昭27)1月23日生まれ、青森県三沢市出身の70歳。三沢では68年夏、69年春夏と甲子園3季連続出場。69年夏は決勝で松山商と延長18回引き分け再試合の熱戦を演じ、準優勝。69年ドラフト1位で近鉄に入団。甲子園での人気からオールスターに7度出場した。83年には巨人、84年には阪神に移籍し、同年で現役引退。現役通算は318試合登板、58勝85敗4セーブ、防御率4・05。阪神時代の背番号は24。右投げ右打ち。

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