常総学院センバツ切符!元プロ・島田監督、甲子園初采配へ木内さん魂「監督の声は僕の中にある」

[ 2021年1月30日 05:30 ]

センバツ出場が決まり喜ぶ田辺主将(前列左)、OBの島田監督(前列右)ら常総学院ナイン(撮影・西川祐介)
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 第93回選抜高校野球大会(3月19日から13日間、甲子園)の選考委員会が29日、初めてリモートで行われ、出場32校が決まった。昨年はコロナ禍で中止となり、令和初のセンバツ開催。5年ぶり10度目の出場となる常総学院(茨城)は、日本ハムなどで活躍した島田直也監督(50)が、就任初の聖地に立つ。昨年11月には恩師で元監督の木内幸男氏(享年89)が死去。01年以来の優勝を届けることを誓った。組み合わせ抽選は2月23日に行われる。

 春を告げる吉報が舞い降りた。坂田英一校長から伝えられたセンバツ出場決定。グラウンドで喜ぶ選手たちを島田監督はまぶしそうに見つめていた。

 誰よりも吉報を報告したかった恩師はもういない。喜んでくれただろうか。それとも「浮かれてちゃ勝てねえっぺ」と厳しく言ったかもしれない。「選手として出場して指導者として甲子園に戻れるのは幸せなこと。木内監督の声は僕の中にある。その力を借りながら、新しい常総学院の戦いをしたい」

 ちょうど3カ月前。関東大会準優勝でセンバツ出場を確実にし、2年後輩の仁志敏久氏(49=現DeNA2軍監督)とともに取手市にある木内氏の自宅を訪れた。このとき、恩師は末期の肺がんで入院直前。「もう十分満足な人生だったから」と治療を断っており、声も出ない状態だった。それでも最後の別れと分かっていたのだろう。「よくやった」と絞り出すように言われ、手を握りしめてOKサインをつくってくれた。訃報はその1カ月後だった。「必ず天国で見てくれると思う。“ばかやろう”と怒られないように采配したい」。島田監督は思いを強くした。

 今から34年前の春。木内氏にとって常総学院で初の甲子園が87年のセンバツだった。そのときのエースが島田監督。1回戦で明石(兵庫)に敗れたが、同年夏の甲子園で準優勝した。それが全国区の強豪校としての第一歩。あれから34年の時を経て「木内イズム」を継承し、今度は監督として甲子園へ挑む。「まだ恩返しまでいかないけど、後々は追い越せという気持ちでやりたい。攻撃のときとか、サインが分からなくなったら木内監督に聞きます。(自分の中で)生きていると思うので」

 昨年7月の監督就任後、YouTubeで何度も高校時代の映像を見直した。選手一人一人を観察し、長所を見つけて試合に生かしていく。「木内マジック」の原点を再確認して臨む甲子園。「甲子園は自分自身を成長させてくれるところ。行くだけではダメ。一日でも長くいて、選手たちを成長させたい」

 目指すのは、もちろん01年以来のセンバツ優勝。天国の恩師もそれを待っている。(秋村 誠人)

 ◆島田 直也(しまだ・なおや)1970年(昭45)3月17日生まれ、千葉県柏市出身の50歳。常総学院ではエースとして87年春に同校初の甲子園出場を果たし、夏は準優勝。同年ドラフト外で日本ハム入団。大洋、横浜(ともに現DeNA)、ヤクルト、近鉄を経て、03年に現役引退。通算419試合で39勝38敗9セーブ、防御率3.69。97年に最優秀中継ぎ投手。その後はDeNA2軍投手コーチなどを歴任し、20年3月に学生野球資格を回復。常総学院コーチに就任し、同年7月に監督に昇格した。右投げ右打ち。

 ▼常総学院のセンバツ初出場VTR 87年の第59回大会で初出場。東海大浦安の出場辞退により、補欠校からの選出だった。84年から指揮を執っていた木内幸男監督が取手二時代以来の甲子園に凱旋。1回戦の明石戦ではエースの島田直也が先発も0―4で敗退。同年夏は決勝でPL学園に敗れ準優勝だった。

 【03年夏優勝主将・松林部長も勝利誓う】松林康徳部長も亡き恩師へ届ける勝利を誓った。同部長はの甲子園決勝でダルビッシュ(現パドレス)擁する東北(宮城)を破って優勝したときの主将。このとき、決勝戦後に木内氏に手渡したウイニングボールは形見として戻ってきた。「選手たちの姿を見て、一人でも多くの方が“自分たちも頑張ろう”と思ってもらえたらありがたい」と話した。

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