気がつけば40年(30)「おまえも書け!」星野仙一監督が中日を退団する際に見せた鬼の形相

[ 2020年11月7日 08:00 ]

星野退団を報じた1991年9月22日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。今回は1991年、闘将・星野仙一が最初の中日監督を退いた際の話を書きたい。

 9月21日、ヤクルト戦を控えたナゴヤ球場。試合前の練習中、東京から来た遊軍記者の私があいさつに行くと星野監督はぶっきらぼうに言った。

 「何しに来たんや。もう用はねえやろ」

 この年の中日は前半を首位で折り返し、広島に4・5ゲーム差をつけて8月を終えた。ところが、9月に入って負けが混み、10日に2位転落。首位に立った広島との差はズルズル広がり、20日の時点で4ゲーム差になっていた。優勝が絶望的になってきたから「もう用はねえやろ」というわけである。

 「いや、大事な用があるんで」

 私はそう正直に返した。もちろんこの場では口にしなかったが、「星野退団」という原稿を書きに来たのだ。就任5年目を迎えた星野監督。複数の関係者から「今季でユニホームを脱ぐ」という情報が入っていた。

 追突事故に加えて飛行機の棚から荷物が落ちてきて再発したむち打ち症に前年かかった糖尿病。自身の健康面だけじゃない。扶沙子夫人が白血病で余命1年を宣告されていると聞いてきた。

 「退団」を裏付ける材料は十分あったが、まだ星野監督本人に当てていない。他社の記者がいる前では聞けない。試合後、自宅に先回りしてぶつけるつもりだった。それが「大事な用」だったのである。

 試合中に原稿を書いて会社へ送り、試合が終わる前にこっそり球場を出て星野監督の自宅へ向かった。今のようにスマホで試合経過がリアルタイムで分かる時代じゃない。近くの公衆電話から会社に電話して試合終了の時間を聞き、そろそろかと身構えて待ったが、星野監督はなかなか帰ってこなかった。

 そのうち1人、2人と他社の記者が集まり始めた。まずい展開だ。こうなったら最後の最後、星野監督が玄関に入る間際に首を突っ込むしかない。そう覚悟を決めたとき、星野監督が帰ってきた。

 最初は「なんや、こんなにたくさん来て」とおだやかに話していた闘将の表情が一変したのは話の途中、ある記者が息を切らして駆け込んできたときだ。

 以下、星野監督とその記者のやり取りを再現する。

 「なんや、おまえは?」

 「勝負しました。辞めると書きました」

 「なにい?昼間話したやろうが。わしの言うことが信用できんのか!」

 「いろいろ取材して確証を得ました」

 その記者は昼間、自宅で星野監督に「辞任」をぶつけて否定されたらしい。

 「わしが辞めんかったら、おまえ、どうするんや。腹切る覚悟はあるんか!」

 「……」

 しばし静寂の後、星野監督は突然、私を指さして言った。

 「おまえも書け!」

 もう少し早く帰ってきてくれたら、こんな形で「大事な用」をすませることにはならなかったのに…。

 「僕も書いてます」

 そう話したら、星野監督は鬼の形相で、集まった記者全員を見渡して言った。

 「辞めたる。おまえらがそんなにわしを辞めさせたいんなら辞めたる。みんな書け!辞めたる!」

 そう言って玄関に入った。

 実際に書いたのは星野監督に書いたと伝えた記者と私の2人だけだったが、2日後、星野監督の慰留に努めていた中山了球団社長が加藤巳一郎オーナーとの会談後「(慰留は)難しいということで意見の一致を見た」と辞任を公表した。

 一連の流れの中で改めて感じたのが星野監督と島野育夫コーチの絆の太さだ。

 星野監督の去就に関して懐刀の島野さんに夫人のことを聞いたら「きょうも家に行ったけど、奥さん元気にしとったで」ととぼけられた。その島野さんが退団が公になってから教えてくれた。

 「おまえが聞いてきたのは全部本当や。監督は“最後の1年くらい一緒におったってもええやろ”とオレに言うてきたんや」

 星野さんが手放さなかったわけだ。1989年の秋、ダイエー(現ソフトバンク)監督就任が決まった田淵幸一さんは島野さんにヘッドコーチを頼みたかった。その意向を伝えると島野さんはこう言った。

 「手伝ってやりたいけど、オレは中日と星野に世話になっとるんや。自分から辞めるわけにはいかんよ。監督同士で話をしてくれ」

 それを伝え聞いた田淵さんが「仙ちゃん、島ちゃんを貸してくれよ」と頼んだら、こう返されたという。

 「わしを殺す気か」

 ひと言で話は終わった。

 余命1年とされた扶沙子夫人は監督の重責から解放された星野さんと穏やかな時間を過ごし、星野さんが中日の監督に復帰して2年目の1997年1月31日に帰らぬ人となった。宣告から6年が経っていた。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。

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