追悼連載~「コービー激動の41年」その98 偶然が生んだブライアントの奇跡の人生

[ 2020年5月24日 08:30 ]

60年代から80年代までグローブトロッターズでプレーした故フレッド・カーリー・二―ル氏(AP)
Photo By AP

 レイカーズのミネアポリスからロサンゼルスへの移転を発表する記者会見はシーズンが終わったあとの1960年4月28日。それはチームの運命を変えた1日となった。

 ミネアポリスでボブ・ショート・オーナーが「どこか遠くへ行きたい」と物思いにふけっていたころ、2人の人物がロサンゼルスでNBAチームの誕生に向けて動いていた。1人はカリフォルニア州南部でラジオ局のプロデューサーを務めていたレン・コーボジエロ氏。同氏はその前年にセントルイス・ホークスのベン・カーナー、フィラデルフィア・ウォリアーズのエディ・ゴットリーブ両オーナーに「ロサンゼルスに来ないか?」と声をかけていたが誘致に失敗。結果的にNBAがこのコーボジエロ氏をレイカーズの誘致側の発起人として認め、移転手続きを任せることになるのだが、もう1人、西海岸にNBAのチームを作ろうとしていた人物がいた。

 それが“ショーバスケ”で有名なハーレム・グローブトロッターズ(発祥の地はシカゴ)の白人オーナー、エイブ・セイパースタイン氏だった。彼はグローブトロッターズを単なるショービジネスではなく、本気でNBAのチームに変えようとしていた。もともとレイカーズを含めたプロチームとも真剣勝負を繰り返していた実力派軍団。もしNBAがセイパースタイン氏にゴーサインを出していたら、現在ロサンゼルスにいるチームはレイカーズではなかったはずだ。それほど重要なカギを握っていたオーナーだった。

 無念にもNBAへの加入は認められなかったが、改革派のこのオーナーはすぐにABLというリーグを設立。ハワイにホノルル・チーフスというチームを作ってしまった。米本土から遠征に赴いた他チームは必ずチーフスとの対戦を4試合連続で消化。旅費がかさむためにこんな信じられない日程を組んだのである。さらにクリーブランド・パイパーズというチームの指揮を執ったのはジョン・マクレンドン。彼こそプロ・バスケ界初の黒人監督だった。また3点シュート制も導入。わずか1年半でリーグは消滅してしまうが、NBAよりはるかに早いテンポでバスケットボールを改革しようとした人物がもしロサンゼルスにチームを作っていたら、NBA西海岸のチーム構成はずいぶんと違ったものになっただろう。

 さてショート・オーナーの話に戻ろう。西海岸への移転に関して彼は「ビジター・チームの交通費の負担」というNBA側からの条件を受け入れて(現在ならばありえない交渉)、ひとつだけ注文をつけた。「お願いだ。ミネアポリスにあるヤシの木の数ぐらいしか湖がなくても、名前だけは変えないでほしい」。このギブ&テイクがなかったら、新生レイカーズは違うニックネームになっていた可能性がある。ロサンゼルスで湖に出会うのは至難の業?だがチームとしてのルーツへのこだわりが、この名前を今もなお残すきっかけとなった。

 時代は激動していく。移転発表の次に待っていたのはドラフト会議。イの一番の指名権を持っていたロイヤルズは地元シンシナティ大のスーパースターでトリプルダブルの帝王でもあった“ビッグO”ことオスカー・ロバートソンを指名した。2番目がレイカーズ。指名したのはその後、NBAのロゴのモデルとなりレイカーズのGMも務めることになるジェリー・ウエストだった。

 ではおさらいしてみよう。つまりウィスコンシン州のプロチームの試合を新聞記者がミネポリスに招いて試合を行わず、貨物機を改造した専用機がセントルイスを離陸後に不幸な事故を引き起こし、ハーレム・グローブトロッターズのオーナーがロサンゼルスを拠点にするチームを編成し、その後、ホーネッツに指名された有望な高卒選手を獲得するためのトレードを画策するウエストが移転直後のレイカーズに指名されていなければ、コービー・ブライアントという名の選手はまったく違う運命をたどったはず。彼の人生は幾層にも重なりあった偶然が産んだ“奇跡”なのである。

 最後に来日したこともあるグローブトロッターズ(世界を飛び回る人という意味)が保持している数々のギネス記録から2つだけここに記しておく。成功したシュートの最長距離は33・5メートルだが、チャレンジするにはまずコートの外にある通路に立たなくてはいけない。そして1891年にバスケが誕生してからずっと10フィート(305センチ)の位置にあるリングをさらに高いところに設置して決めたダンクの高さは12フィート(366センチ=2000年、196センチのマイケル・ウィルソンが成功)。ミネアポリス時代のレイカーズに勝ったことがある彼らを、いつの日か日本の選手もぜひ乗り越えてほしい。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

続きを表示

この記事のフォト

2020年5月24日のニュース