ミュンヘン銀 小島孝治元バレー女子監督死去 83歳

[ 2014年5月28日 05:30 ]

1972年9月、ミュンヘン五輪バレーボール女子決勝のソ連戦で、選手に指示する小島孝治監督(中央)

 バレーボール監督として女子日本代表を1972年ミュンヘン五輪銀メダルに導き、ニチボー貝塚の連勝記録を伸ばした小島孝治(こじま・こうじ)氏が27日午前0時15分、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。83歳だった。大阪府出身。通夜は28日午後7時、葬儀・告別式は29日午前11時半から、いずれも大阪市東住吉区長居公園1の32、仏光殿臨南寺会館=(電)06(6605)9400=で。喪主は長男寿雄(ひさお)氏。

 関西大卒業後、大阪の四天王寺高女子バレー部で指導者としての能力を発揮した。64年東京五輪金メダルの「東洋の魔女」を育てた故大松博文監督の後を継ぎ、65年にニチボー貝塚(後のユニチカ)監督に就任、伝統の守りのバレーで公式戦連勝記録を258にした。

 ミュンヘン五輪の2位の後、金メダルを有力視された80年モスクワ五輪は、日本の不参加で“幻の代表監督”に終わった。70年世界選手権2位など、世界一のタイトルとは無縁。日立を率いたライバルの山田重雄監督が、76年モントリオール五輪、74年世界選手権、77年W杯を制し「世界三冠」を獲得したのとは対照的に「非運の名将」の異名を覆せなかった。日本バレーボール協会で副会長などを歴任し、大阪市教育委員会委員長も務めた。

 ▼日本バレーボール協会・羽牟裕一郎会長 突然の訃報に接し、驚き言葉を失っております。小島さんのご遺志に応えるべく、関係者一同、これからもバレーボールの強化・普及・発展に全力を挙げて取り組む所存でございます。

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