東日本大震災から9年…津波にのまれた次女、今も捜し続ける

[ 2020年3月11日 05:30 ]

 死者・行方不明者が1万8000人を超えた東日本大震災は11日、発生から9年を迎えた。福島県大熊町には、原発事故による帰還困難区域で、今も津波にのまれた次女を捜し続ける男性がいる。地震翌日に避難し、亡くなった家族3人を捜し切れなかった無念を抱えている。(岩田 浩史)

 熊川海岸からわずか200メートルの自宅跡に建てた小屋を拠点に、木村紀夫さん(54)は7歳だった次女汐凪(ゆうな)さんを今も捜し続けている。自宅は福島第1原発からわずか4キロ。帰還困難区域に指定され、今も帰宅できない。午前9時から午後4時まで認められる「一時立ち入り」を利用し、遺骨や遺品を探している。

 津波に奪われた家族の命は3つ。父王太朗(わたろう)さん(当時77)と妻深雪(みゆき)さん(同37)は、1カ月後に遺体で発見された。ただ一人、見つからなかった汐凪さん。16年12月、顎の骨などが見つかった。「ホッとした面もあるけど、実感が湧かなかった。遺体じゃなく、小さな骨なんだもの。それを娘と言われても…顎の骨は、歯や銀の詰め物から、娘だと分かってはいるけど…」。これで終わらせては娘がかわいそうだと思った。

 昨年4月、長女(19)が進学で上京したのを機に移住先の長野県白馬村を離れ、いわき市に引っ越した。「長女と離れた寂しさはある」というが「自由に汐凪を捜せる」と強がり、車で約40分の道のりを通う。当初は3カ月に1回の制限があった立ち入りは、徐々に緩和され今は年30回が上限。だが実際には、申請すればさらに入れるといい「今年度の立ち入りは130回を超えた」という。

 9年前、勤務先であの揺れに遭った木村さん。暗くなってから帰宅すると、家は流されていた。懐中電灯1本で、3人を捜したが見つからない。夜が明けると原発事故が起きて避難を余儀なくされた。生き残った母と長女を連れて故郷を離れるしかなかった。

 当初は海岸沿いを中心に捜索したが、今は自宅近くのガレキ置き場に重点を置いている。そこで汐凪さんの遺品や遺骨を見つけたためだ。「マフラーの泥を払ったら何かがポトリと落ちた。首の骨でした。ということはマフラーを首に巻いてたんだ。汐凪はこの辺りにいたんですよ」と生前の汐凪さんを思う。

 「やんちゃな娘でね。近所のおじさんを“ハゲチャビン”とか言ってシャワーで水を掛けたり…ひやひやしましたよ」と笑った。

 自宅そばの田んぼでは王太朗さんが見つかっている。避難ギリギリまで捜索を続けた地元消防団から「人の声がした」と聞いたことが胸に刺さる。「誰の声かは分からない。父が生きていたんだろうか。汐凪だっていたかもしれない。避難せず捜せば、助けられたかもしれない。家族を見殺しにしたのかもしれない」と自分を責める。わずかでも救える可能性があったと想像するだけでやり切れない。原発事故さえなければ「少なくとも、もっと早く見つかった」と怒りは消えない。

 せめて娘の遺骨や遺品を全て見つけてあげたいと思う。一方で「全て見つけたら、それで終わってしまう。ここに来続ける方が、彼女はうれしいかもしれない」。探し続ける時間は、汐凪さんを思い、つながれる大切な時間なのだろうか。子を思う親の心が消えることはない。

 ≪大熊町帰還困難区域 いたるところに汚染土入りの黒い袋≫今月3日、木村さんに同行して大熊町の帰還困難区域に入った。有人ゲートで許可証を見せ、線量計を渡されて区域内に入ると、頑丈なバリケードで封鎖された家屋が目についた。いたるところに「フレコンパック」と呼ばれる汚染土を詰め込んだ黒い袋が積み上げられていた。
 工事関係者以外、歩く人の姿がほとんどない。汐凪さんが通った熊町小学校も静まりかえったまま。校舎をのぞくと、小さな机の上には辞書や教科書が積まれ、あの日、子供たちが避難したまま時計が止まったようだった。
 7時間の滞在で線量計が示した値は9マイクロシーベルトだった。胸部エックス線検査が1回あたり50~60マイクロシーベルト前後とされる。

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