柴田政氏、忘れられない2つの皐月賞

[ 2019年3月1日 05:30 ]

柴田政人氏(撮影・西川祐介)
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 【競馬人生劇場】1994年、当時、競馬専門紙に勤めていた私は、スタンドからその瞬間を目撃した。柴田政人騎手の騎乗していた馬が最後の直線で骨折。鞍上が馬場に投げ出されたのだ。結局、柴田政人騎手はこのケガがもとで騎手を引退。調教師へと転身した。

 1948年8月19日、青森県で生まれた。実家は米作農家でありながら兼業で馬産も行っていた。叔父や兄が騎手だったことで、自身も騎手となった。“花の15期生”と呼ばれた同期にはダービーを制す伊藤正徳騎手(後に調教師)、岡部幸雄騎手、そして福永祐一騎手の父で天才と呼ばれた福永洋一騎手らがいた。

 デビュー3年目にはアローエクスプレスに乗って京成杯を勝ち、自身初の重賞制覇を飾った。しかし、皐月賞を前に実績不足ということで無念の乗り代わりを告げられた。実績を積むしかないと、悔しさを糧に努力を重ねた。結果、73年に関東リーディングを獲得すると、78年にはファンタストで皐月賞に挑戦。10年前には乗ることすらできなかったこのレースを優勝し、無念を晴らした。

 「レース後、伊達(秀和)オーナーと高松(三太)調教師が凄く喜んでくれました」

 ファンタストの伊達オーナーと高松調教師はアローエクスプレスと全く同じ。「あの乗り代わりで苦しんでいたのは自分だけではなかったことに気付き胸が熱くなった」と言う。

 冒頭に記したように94年の事故で引退に追い込まれたが、その前年にはウイニングチケットで日本ダービーを勝った上に、戒告、減点ともなく、36年ぶりの特別模範騎手賞を受賞していた。

 「同期の洋一が生死をさまよう事故に遭い引退を余儀なくされていました。それだけに事故を起こさないように乗ろうという思いは強かったです」

 そんな男が自らも事故で引退に追い込まれたのは残念だった。

 騎手引退後は調教師となったがこの2月末日を持ってそれも引退。今後は気楽に競馬を楽しんでいただきたい。(フリーライター・平松さとし)

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2019年3月1日のニュース