【山本譲二 我が道27】気になっていることが2つ 私を「さん」付けで呼んだ母

[ 2026年4月28日 07:00 ]

公園のベンチで母のハルヱと(本人提供)
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 母のハルヱはなぜか、実の息子を「譲二さん」と「さん」付けで呼んでいました。優しくて、きれいで、料理上手で自慢の母。幼い時からずっと「お母さん子」でした。そんな母に対して自分が取った行動で気になっていることが2つあります。

 せっかく決まっていた会社をわずか3カ月で退社してしまった自分。「絶対に歌手になる」と大見えを切って上京したのに、喫茶店店員、クラブのボーイ、ちり紙交換やパチンコ店員など、歌手と無縁のアルバイト生活に明け暮れていました。そんな時に母から初めて手紙が届きました。

 「3万円送ってほしい」と記されていました。自分がその日暮らしで四苦八苦しているのに、いくら親でも金を送る余裕はありません。そんな自分の境遇を分かった上で書いてきたのだから、よほど困っていたのでしょう。その時の母の気持ちを思うと情けなさしかありません。「オフクロ、ごめん」と手紙を握りつぶした感触は、一生忘れられません。

 もう一つは、2021年7月21日に亡くなった母の最期をみとれなかったことです。99年4月に父の武が先立った後、東京で一緒に住もうと言いました。しかし母は「ここがええ」とずっと一人で下関の自宅で暮らしていました。次第に認知症が進行し、やむなく09年から下関の施設に入ってもらいました。

 母の容体が思わしくないという連絡が来たのは、新型コロナウイルスが全世界で猛威を振るっていた真っ最中でした。不要不急の移動は自粛要請が出されており、仮に行けたとしても病院で面会できませんでした。そんな状況下でしたが、亡くなってから一晩、母と並んで寝ました。友人たちの協力もあり、最大限できる範囲での葬式で送りましたが、「無念」という言葉しかありません。

 81年に「みちのくひとり旅」が大ヒットした後、母からしみじみと言われた言葉を忘れることができません。

 「譲二さんはもう私の息子じゃないけん。ファンの皆さんのものやけ」

 「そんなことない。オレはいつまでもオフクロの息子や」と抗議すると「いや、あなたを大事に思ってくれとるファンの皆さんのもんや。そんな皆さんを大切にするんよ」と繰り返しました。自分以上に、人気商売とは何かについて理解している人でした。

 ずっと「甘ちゃん」の自分は母に甘えきって生きてました。そんな甘えを許してくれるのは、世の中に母しかいないと思っていました。でも、人生の途中で悦ちゃんと出会い、彼女が母の代わりをしてくれるようになりました。それを見届けたから、母は安心して逝ったのだと思います。悪友たちも母を「オフクロさん」と呼んで、自分の母のように慕ってくれていました。母お手製の「イモサラダ」は仲間たちも大好物でした。マヨネーズがたっぷり入ったポテトサラダが、今も仲間の「オフクロの味」です。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

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