【山本譲二 我が道22】何も言わなくても「オヤジのために」 独立しても「北島ファミリー」

[ 2026年4月23日 07:00 ]

妹分・松原のぶえとそろいの法被で
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 「北島ファミリー」という呼び方が定着したのは、自分が売れた後、1980年代後半からでしょう。北島のオヤジは老舗の「新栄プロダクション」から独立して72年に「北島音楽事務所」を設立。その3年後に自分が付き人兼前歌歌手として入りました。同じ頃に北海道つながりで大橋純子が加わり、人の縁でもんたよしのりも所属。次第に大所帯になっていきました。2人が売れたのは「北島音楽事務所」時代ですが、やはり音楽の方向性が違うと、やがて出て行きました。

 残ったのは自分以下、松原のぶえ、原田悠里、和田青児、小金沢昇司の演歌勢、「夜霧のハウスマヌカン」がヒットした「やや」というメンバーでした。その後、山口ひろみ、北山たけし、大江裕も加入しましたが、のれん分けの形で3年前に全員、事務所から独立しました。

 昇司が「弟分」でしたら「妹分」はのぶえでした。彼女が大分の中学3年生の時にスカウトされて上京。その頃、乃木坂にあった事務所のエレベーターで鉢合わせしました。自分は依然として売れていませんが「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜きした直後。それを見て顔を知っていたのでしょう。はっとした顔で見つめられました。まだ子供で可愛らしかったことを覚えています。

 彼女は専務の秘蔵っ子歌手として大事に育てられました。生活態度から歌のレッスンまで、相当厳しいものだったはずです。事務所近くの公園のジャングルジムに登ったのぶえから「お兄ちゃん、もう故郷に帰ろうかな」と相談されたことがありました。「のぶえは恵まれていて、良いところまで来ているじゃないか。今頑張らなきゃだめだろ」と自分に言い聞かせるように言うと、涙を拭きながら「分かった」と言っていました。

 久しぶりにのぶえと仕事で一緒になった時、彼女の顔に斑点が出ていました。持病の腎機能障害が悪化していたのです。「誰でもええから、身内の腎臓を早く移植せえよ。自分の体を粗末に扱うなよ」と強く伝えました。実際、09年5月、弟の腎臓を移植する手術を受けすっかり回復したそうで、何よりです。

 学校の音楽の先生だった悠里は、本当にひたすら努力ができる人。自分はまだ努力が足りないと頭が下がります。青児も10年ほどオヤジの付き人をしていました。「そろそろデビューさせてあげましょうよ」と口添えをした思い出があります。東北人特有の粘り腰が魅力です。やはり付き人から歌手になり、オヤジの義理の息子になったたけし。山口ひろみとともに、同じテイチクからデビューした「直系」の後輩です。とても他人とは思えません。大江とは重なる時期がありませんが、オヤジを大事にしている気持ちが伝わります。

 最近はたまにしか会えない、弟や妹たちです。でも、何も言わなくても「オヤジのために」という一点で、「北島ファミリー」の者の心はずっと固くつながっています。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

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