【山本譲二 我が道2】口癖は「かあちゃん、パイパイ」 幼い頃は物凄い泣き虫の母親に甘えっ放し

[ 2026年4月2日 07:00 ]

七五三で姉・圭子と(本人提供)
Photo By 提供写真

 山口県下関は本州の最西端の港町です。終戦から間もない1950年2月1日、山本武・ハルヱの長男として、その下関で生まれました。2歳上に姉の圭子がいましたが、昨年10月に亡くなりました。27年前、父親が亡くなった直後に母親から知らされたのですが、実は兄もいたそうです。しかし、親の不注意で生まれてすぐに亡くなってしまったとか。自分は長男なのにどうして「譲二」なのか、ウチの墓になぜ水子地蔵があったのか、ずっと気になっていたことが明かされました。

 父の武は出征して帰還後、トラック運転手をしていました。下関から広島あたりを行き来する、砂利を運ぶトラックに乗っていました。後にタクシー運転手に転職しました。ケンカ早くて、おべっかの一つも言えない武骨な性格だったので、接客商売でもあるタクシーの仕事は不得手だったでしょう。おそらく嫌々やっていたはずです。自分が歌手を目指して上京する際、「タクシー運転手の息子が歌手になれるわけないやろが」と大反対していた父。上京を認める代わりに「譲二、行ってこい。だけど車の免許だけは取るなよ」と“条件”を出しました。その言いつけを守った結果、今も運転免許を持っていません。自分の性格を熟知していた父は、仮に免許を持ったら、歌手になる夢を簡単に諦めてしまうだろうと思っていたのでしょう。

 小学校に上がると、朝礼で校庭に整列する時も教室の座席も、いつも一番前が定位置のチビでした。しかも、幼い頃から物凄い泣き虫。いつも母親に甘えっ放しでした。幼稚園に通い始めても、母親から離れたくない一心で、母の着物の裾をつかんで離さなかったそうです。「譲二、一人で行かなきゃいけんのよ」と諭されて、泣きながら幼稚園への階段を上がって行った思い出があります。そして、いつまでも「かあちゃん、パイパイ」が口癖の乳離れが遅い子でした。小学生になっても母のおっぱいを飲んでいました。銭湯でおっぱいを飲んでいるところを同級生に見られて、学校でさんざんばかにされ、笑われたことを覚えています。2歳上に姉がいた影響もあったのでしょう。「おままごと」遊びが大好きで、男の子と相撲を取るなどは大嫌い。どちらかというと、ひ弱な少年でした。

 海沿いの下関は、小高い丘が海岸線近くまで迫っていて、坂道や階段だらけの街並みです。人生の最初に見たと記憶している映像は、三輪車を買ってもらい、喜んで乗って遊んでいる景色です。自分が遊んでいる広場の向こうには、長い階段とお地蔵さんがあります。子供がやたら大勢いた時代です。大声を出しながら走り回っている子供たち。その向こうを見上げると、長い階段があり、夕日が当たってセピア色に輝いていました。実際はカラーで見えていたはずです。なのに記憶に残っているのは、なぜか白黒映像で、セピア色の階段の景色です。不思議でなりません。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

続きを表示

この記事のフォト

「美脚」特集記事

「中居正広」特集記事

芸能の2026年4月2日のニュース