【岸本加世子 我が道10】忘れもしない81年8月22日の悲劇…「じゃあね」が永遠の別れに

[ 2025年11月11日 07:00 ]

向田邦子さんの悲劇を報じる1981年8月23日付スポニチ本紙大阪版
Photo By スポニチ

 「あ・うん」の続編が作られ、放送されたのが1981年5月から6月にかけて。その後、「わが愛の城―落城記より―」というテレビ朝日のドラマの撮影に入りました。芥川賞作家・野呂邦暢さんの小説が原作で、向田邦子先生が「私が必ず映像化する」と野呂さんと約束して、自ら初プロデュースも買って出た意欲作です。

 長崎諫早の名門・西郷家が豊臣秀吉が命じる九州征伐を断ったため、佐賀の軍勢に攻め立てられる。落城までの3日間を描いた時代劇で、萩原健一さんと私が主演。三國連太郎さんや渡辺美佐子さん、若林豪さんらベテランがしっかりと脇を固めてくれました。

 収録が進む京都・太秦の東映撮影所に向田先生が陣中見舞いに来てくださいました。「お昼ご飯行こう!」と、嵐山に連れて行っていただき、ごちそうになりました。

 撮影所に戻り、俳優会館の手前のビルで午後の開始を待っていると、向田先生が正面の階段をカンカンと軽快に駆け上がると、踊り場の所で何かを思い出したらしく突然振り返って

 「そうだ、加世子。次は子供いるからね」

 そうおっしゃるんです。

 「続・続あ・うん」のことでした。「続あ・うん」は、私が演じる「水田さと子」に恋人ができ、彼氏に召集令状が来たところで終わっています。

 「じゃあね」

 これが永遠の別れとなってしまいました。京都での「じゃあね」から3日後くらいに取材旅行で台湾に向かわれ、搭乗した航空機が墜落して帰らぬ人となりました。81年8月22日の悲劇。51歳でした。

 その日、私はドラマの撮影で渋谷区神南のNHKにいました。忘れもしません。局内のテレビ画面に事故の速報が流れ、搭乗者の中に「K・ムコダ」がいると映し出されたんです。「ムコウダ」ではなく「ムコダ」だった記憶があります。そのうちどうも向田先生が乗っていた便らしいという情報が入り、私は次第に取り乱していきました。

 翌日、私はNHKで会見。前の晩に泣きすぎて目が腫れてしまい、眼帯をして臨みました。先生のご遺体が日本に戻ってくると、久世光彦さんが「行くぞ」と誘ってくださり、青山の先生のマンションにお邪魔しました。「ご遺体の前で声を張って“ありがとうございました”と言え」と久世さんに言われるまま、手を合わせて大声でお礼を言い、お別れをしました。

 後になってマネジャーに聞かされたんですが、向田先生は「加世子を私に預けなさい。3年で本物の女優にしてみせるから」とおっしゃっていたそうです。それが3年も待たずして逝ってしまわれ…。向田先生の初プロデュース作品「わが愛の城」も見ていただけなかったのが残念でなりません。

 ◇岸本 加世子(きしもと・かよこ)1960年(昭35)12月29日生まれ、静岡県島田市出身の64歳。77年、テレビドラマ「ムー」で女優デビュー。以降、テレビ、舞台、映画、CMなどで幅広く活躍。ドラマ「あ・うん」、舞台「雪まろげ」、北野武監督の映画「HANA―BI」「菊次郎の夏」など代表作多数。著書に小説「出てった女」、エッセー「一途」など。

続きを表示

この記事のフォト

「美脚」特集記事

「中居正広」特集記事

芸能の2025年11月11日のニュース