【細川たかし 我が道11】曲名は「私バカよね」だった スタッフの一言で急転、変更に

[ 2025年6月12日 07:00 ]

上京して初めてのレコーディング
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 ナイトクラブは基本、週末は休みです。土曜・日曜日の休日を利用して上京し、レコード会社のオーディションを受けることになりました。閑散としたスタジオで、カラオケで何曲か歌うオーディションです。ビクターやテイチクなど5社ほど受けましたが、最終的に日本コロムビアと、文化放送の音楽出版社「セントラルミュージック(JCM)」が私に興味を持ってくれました。

 「バーニングプロダクション」の周防郁雄社長はまだ30代前半でした。体力も気力も充実しており、仕事もイケイケの時です。何事も即断即決、性格的にもかなりせっかちです。歌手デビューの話も急テンポで進みました。一方、私は札幌のクラブ歌手として収入は安定しており、結婚したばかりで子供もいます。東京に出てきて新人歌手としてスタートし直すのはリスクもありました。

 かなり悩みましたが、妻の和子の「1年だけやってみればいいじゃない。ダメならば帰ってくればいい。やってみないと後悔するでしょう」の後押しもあり、周防社長に世話になることを決めました。その際、社長に1つだけ条件を出しました。「実はテレビに出たことがないので、テレビに出してください」。子供みたいなこの約束は、後に嫌というほど十分に守ってくれることになりました。

 1974年秋。いよいよデビュー曲のレコーディングのために2日間、上京しました。既に候補の2曲が出来上がっていました。ともに、なかにし礼さんが作詞、中村泰士さんの作曲です。初日は中村さんの自宅にレッスンに伺いました。いつも明るく楽しい方です。一方、なかにしさんは翌日のレコーディングスタジオで初めて会いました。黒い服を着て、青白い顔。いかにもインテリ然としていて、格好良かったのを覚えています。

 初めてのレコーディングは、思っていたよりもササッと終わりました。さっと歌って、すぐに札幌に帰った記憶があります。中村さんのメロディーはカントリーっぽくて、洋楽みたいな印象でした。サビもノリが良くて暗さがありません。いわゆる「売れ線」のメロディーでした。何よりも、なかにしさんの書いた「私バカよね、おバカさんよね」の歌詞が凄かった。このインパクトで売れたと今でも思っています。

 翌75年4月1日にデビューすることが正式に決まりました。もともとは「私バカよね」という、歌い出しと同じタイトルだったのです。年明けから全国各地でキャンペーンが始まり、デビューに向けての準備が着々と始まりました。すると「今度“私バカよね”でコロムビアからデビューする細川たかしです」と紹介するのが恥ずかしいというスタッフの声が寄せられました。そこでコロムビアの根本敏雄制作本部長がなかにしさんに頼んで、タイトルを「心のこり」に変えてもらったそうです。「私バカよね」のままだったら、どういう結果だったのか気になるところです。

 ◇細川 たかし(ほそかわ・たかし)1950年(昭25)6月15日生まれ、北海道出身の74歳。札幌・ススキノのクラブ歌手時代にスカウトされ、75年4月に「心のこり」で日本コロムビアからデビュー、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞。82年「北酒場」、83年「矢切の渡し」で史上初の日本レコード大賞2連覇。84年「浪花節だよ人生は」で同賞最優秀歌唱賞を受賞し「レコード大賞3冠」を達成。ほかに「望郷じょんから」など。

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