【馬淵史郎 我が道5】脅迫電話も相次ぎ…騒動の責任感じ学校に進退伺も

[ 2026年3月5日 07:00 ]

星稜戦を終えて複雑な表情を見せる
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 92年(平4)の「松井5敬遠」に対する世間の反応は、まさに想定外だった。当日夜はトップニュース。翌日の新聞でもいろんなことを書かれた。明徳義塾の宿舎には「馬淵を出せ」「高知に帰らせろ」などの電話が殺到。パトカーが出動し、周囲を警戒する騒ぎにもなった。監督も選手も宿舎から一歩も出られなくなった。

 宿舎に「馬淵史郎様」で郵便が届いた。開けてみるとカミソリが入っていた。中に紙が一枚。「これで首切って死ね」。完全に悪役だった。気分はデストロイヤー、あるいはタイガー・ジェット・シンだったな。明徳義塾は何も悪いことをしていない。そう叫びたかった。野球とは何か。公認野球規則にはこう書いてある。「各チームは相手より多くの得点を記録して、勝つことを目的にする」。勝つために敬遠策を取った。汚い手を使って戦ったんじゃないと言いたかった。

 星稜戦の6日後。張り詰めた中で3回戦の広島工戦を迎えた。ヤジられるのを覚悟で、甲子園に入ったが、待っていたのは意外な拍手だった。嫌がらせを受けていると報じられたのに加え、広島工側も「明徳義塾はルール違反をしたわけでなく、選手に何の罪もありません。広島工業野球部も同じ作戦を採用したかもわかりません」というビラを応援団に配ってくれたと聞いた。心から感謝したかったが、張り詰めた気持ちがなくなったためか、あっさりと負けてしまった。

 やっぱり悔しかった。試合後のミーティングで「お前らはようやった」と言った瞬間、涙が止まらなくなった。負けたから泣いたんじゃない。耐えて、耐えてきて、こんな思いで大会が終わるなんて。それが悔しかった。

 高知に帰って、監督としてケジメをつけないといけないと思った。学校にも脅迫電話が相次いでいた。迷惑をかけた責任は自分にある。吉田圭一校長に進退伺を出したが、突き返された。「間違ったことをしたんじゃないだろ。あれで辞めさせたら、それこそ教育にならない」と説得された。頭を下げるしかなかった。

 いろんな声も届いていた。世界の王貞治さんは「ボクが監督でも敬遠したかもしれない。ルール違反なんかじゃない」と発言していただいたし、ビートたけしさんも「弱いところを研究して勝負するのは逃げじゃない。テニスでもバレーでも相手の得意なところにサーブを打つ人はいない」とコメントされていた。歴史が好きだからほとんどの本を読んだ司馬遼太郎さんが「高知の人間は目先のことにとらわれず、大局を見据える度量がある」と寄稿されたのも目にした。愛媛出身だったけど、うれしかった。

 バッシングはしつこく続いていたけど、それこそ逃げるわけにはいかないと思った。「馬淵はあれで終わった」と言わせないためにも戦うしかなかった。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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