【馬淵史郎 我が道4】勝者が浴びた「帰れ」コール 騒動が収まる気配は全くなく

[ 2026年3月4日 07:00 ]

スタンドから物が投げ込まれ試合は中断
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 星稜戦では2回に先制できたのも、5敬遠につながる流れをつくった。中前打の4番・岡村憲二が相手ファンブルで二進。さらに捕逸で三塁に進んだ。5番の加用貴彦も四球。ミスと四球で得たチャンスに青木貞敏のスクイズ、久岡一茂の二塁打で2点先制。敬遠策を取った上で勝つ、ということを考えていただけに、2点の先制は物凄く大きかった。

 3回1死二、三塁での敬遠ではスクイズで得点されたが、1点だけに踏みとどまり、明徳義塾もその裏に加点。5回1死一塁での3度目の敬遠は6番のタイムリーで1点差。敬遠が2度失点に結びついたが、最少失点で持ちこたえ、リードも守っていた。最初から全部敬遠というつもりではなかったが、この流れになったらやむを得ない。一塁側ベンチでも腹をくくった。

 甲子園に出て、勝つために苦しい練習をしてきた。自分もまだ36歳だったから、相当に選手を鍛えた。練習試合では1点取られるごとにベースランニング10周、負けたら30周とペナルティーを決めて、2試合で1勝1敗、8失点という結果で110周させたこともあった。「点を簡単に与えたら、こうなるんや」と怒鳴っても、選手たちは歯を食いしばった。勝敗の責任は監督にある。みんなを勝たせたい。負けてもいい試合なんてない。勝つための努力を怠ったら、それこそ相手に失礼や。迷いもなかった。

 球場全体のブーイングの中、7回2死無走者、そして9回2死三塁と5打席連続の敬遠。河野和洋は指示通り、5打席の全20球ボールを投げて、そして勝った。3―2で逃げ切った。5度も敬遠することになるとは思わなかったが、戦いをやり切った手応えはあった。

 試合後は「帰れ」コールを浴び、会見でも報道陣は色めきたっていた。「確率の問題で、私の指示で敬遠させました。球場のムードの中で、選手たちに嫌な思いをさせたが、よくやってくれた。高知県代表として、負けるわけにはいかなかった」と試合を振り返った。言いたいことはたくさんあったが、伝えきれなかったな。まだこちらも甲子園2勝目の青年監督だった。

 何とか試合は終わったが、騒動が収まる気配は全くなかった。高野連の牧野直隆会長(当時)も「走者がいるときに、作戦として敬遠することはあるが、無走者のときには正面から勝負してほしかった。1年間、この日のためにお互い苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」とコメントを出された。

 決して逃げたんじゃない。必死に頑張ってきた選手を勝たせるために、敬遠という作戦を取った。力の差はあっても、頭を使って何とか勝負に持ち込むのが高校野球や。こういう野球が好きじゃないという人がいるのは分かっている。でも勝つためにはこれしかなかった。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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