【馬淵史郎 我が道1】34年前の松井5敬遠…今だから語ろう 自分でも忘れたことのない試合

[ 2026年3月1日 07:00 ]

92年の星稜戦はまだ甲子園1勝だった(右から2人目)
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 やっぱり、あの話から始まるのか。もういいやろ、というのが正直な気持ちだけどな。昨年11月で古希の70歳になった。星稜戦の時が36歳。もう昔の話や。でもな。学校では教師として日本史を教えていた。歴史とは事実の積み重ね。5敬遠をしたのも、明徳義塾が3―2で勝ったことも事実。もちろん、自分でも忘れたことのない試合だ。

 92年(平4)8月16日の甲子園だったな。2回戦の第3試合で明徳義塾と星稜が対戦した。暑い一日だった。試合開始時間は13時12分。日曜日の甲子園は5万5000人の大観衆で埋まっていた。その大観衆が明徳義塾の敵に回るとは、プレーボールの時には思ってもいなかった。

 最初の敬遠、2度目の敬遠、そして3度目。星稜の4番・松井秀喜(ヤンキースGM特別アドバイザー)を歩かせるたびに、甲子園の空気が変わっていくのは感じていた。明徳義塾は一塁側ベンチだった。「勝負せんかい」「逃げるんか」の声がさらに大きくなったのは7回だ。2死無走者で4度目の敬遠。ランナーがいない場面でも仕方ない。点差は明徳義塾が3―2でリード。1点差。4番の一発だけは避けないといけない場面だ。

 サインは決めていた。「俺が腕を組んでいたら、敬遠」と河野和洋―青木貞敏のバッテリーには伝えていた。最初から全打席敬遠と決めてたわけじゃない。もっとリードしていたり、星稜ペースの試合になっていたら勝負は当然していた。でも試合は1点差。1点差で勝ち切るための策に徹するだけだった。

 9回2死。勝利まであと一人というところで相手先発の山口哲治くんが左翼越えの三塁打を打った。ならば、こちらもやるしかない。腕をしっかり組んで、5度目の敬遠。甲子園は騒然となった。三塁側アルプスからメガホンやゴミが一斉に投げ込まれ、試合は中断した。

 ボールボーイや星稜の選手が拾いに向かった。ウチの控え選手も行かせようとしたら「明徳は行くな」と本部からストップがかかった。中断中、マウンドに集まった選手たちにもヤジが飛ぶ。俺も腕を組んだまま、ベンチ前に立った。「俺が敬遠させたんだ。文句あるなら俺が聞く」――。自分で全てを受け止める。その覚悟だった。

 松井が最後に走って、9回2死二、三塁から、5番・月岩信成くんの打球は三塁正面に飛んでゲームセット。再び物が投げ込まれるのが見えた。明徳義塾の校歌が甲子園に流れると、球場は「帰れ」「帰れ」の声に包まれた。伴奏も全く聴こえなかった。

 あの「帰れ」「帰れ」は忘れもせん。選手たちは一生懸命戦ってくれた。本当によくやった。その選手たちが勝てるように、1%でも確率の高い作戦を選ぶのが監督の仕事というのが自分の信念。それは今でも変わらない。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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