【平野謙 我が道2】僕はまだ小学生 17歳の姉が支えた平野金物店

[ 2025年10月2日 07:00 ]

6歳上の姉・洋子(左)と。今でも姉には頭が上がらない
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 1967年(昭42)5月に母が亡くなった時、僕は11歳の小学6年生、姉・洋子は17歳の高校3年生だった。両親を失った姉弟。普通なら児童養護施設に入るか親戚の世話になるかのどちらかだったように思う。

 だが、それまで同様「平野金物店」の店舗兼住宅に住み、店を続けていくことになった。姉は頭が良く、大学に進んで将来は教師になりたいと話していたが、学校に行くどころじゃない。高校は休学し、店の経営に専念した。

 とはいえ、まだ高校生。卸業者からすれば、危なっかしく見えて当然だ。商売に必要な信用がない。以前は掛け売りでよかったのに、現金取引しかしてくれなくなった業者もいた。

 姉が店主になって間もなく道路の向かいにあった建材店が金物店に鞍替え。すぐ近くにウチより売り場面積の広いライバル店が誕生したのだ。

 さらに追い打ちをかけるように近所に大手スーパーが進出。敵情視察に行ったら品ぞろえはいいし、価格もかなり安い。とてもかなわないと思った。

 悪戦苦闘する姉を少しは手伝ったが、僕はまだ小学生。しかも少し遠くの小学校に「越境入学」していた。

 最初は名古屋市中村区の自宅に近い豊臣小学校に通ったが、なじめなかった。人見知りというか控えめというか、自分の意見が言えない。いじめはなかったんだけど、このまま地元にいるとよくないんじゃないかという話になって、4年生になる時に中区の栄小学校に転校した。母はまだ元気だった。

 自宅の前にある停留所からバスに乗って片道30~40分かかったんじゃないかな。当時は少なかった小学生のバス通学。満員時は、おじさんたちが「大変だろう」って言って席を譲ってくれたりした。子供に優しい時代だった。

 人見知りの性格は栄小学校に移っても変わらなかった。それで気にしてくれたのか、5年生になる時、三林貞夫先生に「野球部に入ったらどうだ?」と勧められた。

 地元の中日ドラゴンズのことも知らない。三角ベースもやったことがない。グラブも持っていなかったが、学校にあるのを借りればいい。勧められるまま野球部に入った。卒業まで2年間続いたから、楽しかったんだろうね。ポジションはずっとショートだった。

 母が亡くなって僕と2人っきりになった姉はいつも「悲観しても仕方ない。どんな厳しい状況に追いやられても、明るく元気に過ごすんだよ」というふうに接してくれた。陰ではどうだったか分からないけど、僕の前では気丈に振る舞ってくれた。

 年が明け、朗報が舞い込んできた。姉と仲の良い同級生のおばあさんが「高校は出た方がいいよ」と言って、店のお手伝いを申し出てくれたのだ。

 68年4月、僕は名古屋市立前津中学に入学。姉は愛知県立中村高校に復学した。

 ◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。

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