【内田雅也の広角追球】スパイの大リーガーがカタカナで書いたサインボール 阪神・若林忠志の遺品で発見

[ 2023年9月26日 18:36 ]

1932年、若林忠志が大リーガーからもらったサインボール。カタカナで「モベルグ」とある=若林忠雄氏所蔵・甲子園歴史館寄託=
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 【内田雅也の広角追球】多くの史料が並ぶなか「これは何だろう?」と担当者や関係者が首をひねっていた。

 阪神タイガース草創期からチームを支えた投手で、監督も務めた若林忠志(1965年、57歳で他界)の長男・忠雄さん(88)がその遺品約30点を甲子園歴史館に寄託した今月21日のことだ。サインボールのなかに1つ、カタカナで

 「モベルグ」

と書かれたものがあった。

 同じボールには大きな英文字でフランク“レフティ”オドールとある。度々来日し「日米野球の懸け橋」となる功労者だ。「ボゾへ」とニックネームで若林宛てと記されている。1932(昭和7)年と分かる数字もあった。

 ただ「モベルグ」については、忠雄さんも「分かりませんね」と首をひねっていた。

 「モベルグ、モベルグ……」と考えて、ひらめいた。「モー・バーグ!」と思わず叫んだ。

 当時、来日大リーガーだったモー・バーグではないか。「Moe Berg」とつづる。英語読みで「モー・バーグ」だが、ローマ字読みと言うのか、たとえばドイツ語で「山」を意味する「Berg」はドイツ語で「ベルグ」と発音する。

 モー・バーグは自身の姓を英語読みの「バーグ」ではなく、「ベルグ」と自称していたのだろう。そのまま、習いのカタカナで書いたのだ。

 モー・バーグはどんな選手だったのか。両親はユダヤ人。ウクライナから移民としてニューヨーク・マンハッタンでクリーニング店を経営していた。1902年3月、次男として生まれた。「モー」はニックネームで本名は「モリス」という。

 名門プリンストン大に進み、言語学を専攻。卒業後、コロンビア大法科大学院を修了した。ラテン語、フランス語、スペイン語に堪能で日本語も理解した。9カ国語を話すことができた。

 野球史に詳しいノンフィクション作家、佐山和夫さん(87)の『日米野球裏面史』(日本放送出版協会)によると、パリのソルボンヌ大へ留学する希望を抱いており、学費稼ぎのため、大リーグ入りに動いたそうだ。野球には少年時代から親しみ、大学では一塁手や遊撃手として活躍していた。1923年、当時ブルックリンを本拠地としていたロビンス(現ドジャース)に入団。遊撃手としてデビューした。

 だが、大リーグでも成績は芳しくなく、マイナー暮らしも経験した。俊足とは言いがたく、捕手転向で出場機会を見いだそうとしていた。

 サインボールにあった1932(昭和7)年10月末、全日本大学野球連盟の招きによって、オドール、テッド・ライオンズとともに初めて来日した。バーグは控え選手だったが、ホワイトソックス時代にバッテリーを組んだナックルボーラーの右腕ライオンズの相手として選ばれたようだ。

 東京六大学の各校を指導して回った。この時、法政大で出会ったのが若林だった。

 ハワイ生まれの日系2世、若林は1929(昭和4)年4月、法政大に入学。主力投手として30年秋、創部初優勝に導いていた。この32年は秋のリーグ戦で2度目の優勝を果たしていた。

 来日3選手の中心だったオドールとは阪神入団後も交流が続いた。この時が初対面だった。そして「ボゾへ」とサインボールを贈ったのだ。戦後1949(昭和24)年、2リーグ制を推進した際も若林を励ました。

 このなかにバーグがいたわけだ。佐山さんの先の書に兄サミュエルさんの証言がある。帰国後、「こんなに楽しい旅は他ではできない」「こんなに美しい国は他に知らない」と話していたそうだ。バーグはすっかり日本のファンとなり、六大学指導後も日本に残り、各地を周遊している。

 2年後、1934(昭和9)年11月に来日した、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグら大リーグ選抜軍にバーグが選ばれたのは、通訳など、日本に通じていたことが大きな理由だったろう。

 全国各地で18試合を行った。全日本軍は全く歯が立たず、日米混合の紅白戦2試合を除き、16戦全敗だった。沢村栄治(当時京都商)が快投を演じた11月20日、静岡・草薙球場での0―1敗戦は今も語り草となっている。

 バーグはほとんど試合に出ていない。幾度かチームを離れ、別行動をとっていた。一体、何をしていたのか。特に目を引くのが遠征終盤、11月29日である。

 試合は大宮公園球場で行われ、23―5で全米軍が圧勝している。しかし、バーグはチームを抜け出し、当時東京で最も高い建物と言われた築地の聖路加病院にいた。

 花束を買い、ジョセフ・グルー駐日アメリカ大使の娘を見舞うと偽って、エレベーターで最上階の6階に向かい、さらに屋上の鐘楼に上った。そして16ミリのムービーカメラで東京湾の軍艦、造船所、兵器工場、製油所や、皇居、工場群などを撮影している。

 このフィルムは後の日米開戦後、東京大空襲の資料になったと言われている。東京市内の模型作成に利用されたそうだ。

 バーグはスパイだったとされる。野球選手として引退後は戦略諜報局(OSS)=中央情報局(CIA)の前身=の一員として、ヨーロッパを回り、ドイツの原子爆弾開発の情報や細菌戦、超音速航空機についての調査を行っている。

 佐山さんの書では兄サミュエルさんの話として、モーは家では着物やハッピを着て過ごし、日本人がいかに清潔で好意的だったかがわかる。日本の真珠湾攻撃をいかに嘆いたかが記されている。日本を愛していたのだ。

 そんな話をボールの所有者、忠雄さんにすると「スパイですか……」と思いをはせた。「私も戦後、知ったスパイがいました。戦争の悲しい話ですね」

 忠雄さんはこれら父の遺品を戦中戦後、日本から現在暮らす米カリフォルニア州と大切に保管してきた。「みんな空襲で焼けてしまったと思っている。後世に時代を伝える、父を伝える意味で、取っておいてよかった」

 このボールをはじめ、遺品は甲子園歴史館の若林コーナーに展示されている。 (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。2009年、スポニチ本紙(大阪本社発行版)で『若林忠志が見た夢』を連載。大幅に加筆し、2011年、同名の著書(彩流社)を出した。同年、阪神球団は社会貢献、慈善活動、ファンサービスに顕著な業績を残した自軍選手を表彰する「若林忠志賞」を創設した。

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