【高校野球 名将の言葉(4)三池工、東海大相模・原貢監督】甲子園で勝つために「外野手は目を切るな」

[ 2022年8月8日 08:05 ]

1974年8月。甲子園で東海大相模・原辰徳内野手(左)を励ます父・原貢監督
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 65年夏。三池工を率いて甲子園初出場を果たした原貢監督は、高松商、東海大一、報徳学園、秋田、銚子商を破り、初出場初優勝の快挙を成し遂げた。

 「都で勝負がしたい」と、翌年からは東海大相模の監督に就任した。70年夏には再び日本一。攻め続ける「アグレッシブベースボール」の礎を築いたが、きめ細かい野球も原監督の魅力だった。

 甲子園で勝つために、選手にはこんなアドバイスを送った。

 「外野手は目を切るな」

 夏の甲子園のスタンドは銀傘はもちろん、白のシャツ姿で観戦するファンが多い。外野手は後ろへの飛球に対して目を切って追いかけることがセオリーとされていたが、目を切るとボールを見失うリスクが高まる。だからこそ、夏の甲子園のセオリーとして、外野手には目を切らせなかった。

 原貢監督の長男、巨人・原辰徳監督は親子鷹で4度、甲子園の土を踏んだ。父は厳しい指導者だったが「練習中も水分を摂れと。あの時代では珍しかったと思う」と回想する。根性だけでは勝てないことを知っていた。2校で日本一を成し遂げ、準優勝も1回の名将だった。

 三池工の日本一から50年以上が経った。夏の甲子園のスタンドは今でも、白く染まることが多い。さりげない言葉に、原イズムが詰まっていた。(川島 毅洋)

 ◇原 貢(はら・みつぐ)1935年(昭10)3月30日、佐賀県生まれ。鳥栖工(佐賀)から立命大に進み、中退後は社会人野球の東洋高圧大牟田でプレーした。65年に三池工(福岡)の監督として、夏の全国高校選手権大会で初出場初優勝。翌66年からは東海大相模(神奈川)で監督を務め、70年夏の選手権で全国優勝。辰徳氏が入学して2年生だった75年は、春の選抜大会で準優勝した。77年から東海大監督に就任。一度は監督を退いたが再び指揮を執って96年に退任し、その後は野球部の顧問などを務めた。

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