野茂の青き姿に見た野球人魂 1995年5月2日パイオニアの大リーグデビュー

[ 2020年4月19日 05:12 ]

ナ・リーグ   ドジャース3―4ジャイアンツ ( 1995年5月2日    キャンドルスティック・パーク )

95年、マーリンズとの開幕戦、試合前の練習でユニホームを着て笑顔を見せる野茂
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 【忘れられない1ページ~取材ノートから~】今も野球ファンの脳裏に焼き付く名シーンがある。その現場を目撃したスポニチ記者は何を見て、何を紙面に記したのか。裏側にあった事実や知られざる出来事を、当時の取材ノートからひもとく。第1回はちょうど四半世紀前の1995年5月2日(日本時間3日)、日本人2人目のメジャーリーガーとなったドジャース・野茂英雄投手のデビュー戦から――。(鈴木 勝巳)

 澄み切ったカリフォルニアの青空に、海からの風が意外なほど冷たかった。長かった大リーグのストライキが明け、迎えた95年5月2日。野茂はサンフランシスコのキャンドルスティック・パークでメジャーデビューを飾った。バリー・ボンズらを擁するジャイアンツ打線を5回1安打無失点で7奪三振。試合は延長15回の熱戦となり、野茂の降板から取材までやたら長かったことを覚えている。
 「今日は(大リーグで)投げられたこと、全力投球できたことに喜びを感じている」。村上雅則以来、日本出身の2人目のメジャーリーガーとしての第一歩。野茂は素直な言葉で思いを表した。報道陣は100人以上。新たな歴史を刻んだ瞬間だったが、野茂の胸中には実際にマウンドに上がることと同様にもう一つ、譲れないものがあった。チームの一員としての強いこだわり。それはデビューから1週間前にさかのぼる。

 4月24日。フロリダ州ベロビーチでの春季キャンプを終えた野茂は、翌25日にマーリンズとの開幕戦を控える同州マイアミに到着した。そこで球団関係者から聞かされた。「ユニホームは着られない。練習も一緒にできない」と。まだメジャー契約に切り替えておらず、ロースターの40人枠に入っていなかった。一方でメジャーデビュー日は決まっており、チームにも同行しているという中途半端な状態だった。

 周囲は「大したことではないだろう」と思った。しかし、野茂は強くこだわった。

チーム宿舎に戻ると、野茂はフレッド・クレアGMの部屋に足を運んだ。開幕前夜の直談判。クレアGMは快諾し、マーリンズのGMと連絡を取ることを約束してくれた。相手球団の許可を得て、野茂は翌25日にユニホームを着てナインと一緒に練習。ドジャーブルーの青が緑の芝によく映えた。「憧れの大リーグ。凄く気分がいい」とのコメントが、当時のスポニチ本紙にも掲載されている。

 95年当時、日本球界から大リーグに移籍する道筋はまるで整備されていなかった。野茂は近鉄を任意引退となり、賛否両論を巻き起こした末に海を渡った。退路を断って踏みしめた新天地。自身のデビュー戦はもちろん、記念すべき開幕日をメジャーリーガーとして迎えたかった。ドジャースの一員として、ユニホームを着てグラウンドに立ちたかった。そんな熱い思いが伝わってくる。

 当時マーリンズの本拠だったジョー・ロビー・スタジアム。笑顔を交え、ユニホーム姿で練習を行った野茂は、ベンチに入れないために試合はチケットを用意してもらってスタンドで観戦した。そして翌26日に軽めの練習を行った後、チームより一足先にロサンゼルスへ移動。1Aでの調整登板を経て、30日に正式にメジャー契約を結び、5月2日に待望のデビューを果たした。ベロビーチからマイアミ、ロサンゼルス、そしてサンフランシスコへ。新たな歴史の誕生につながる、濃密な1週間だった。

 野茂以前、日本人メジャーリーガーは1人だけだ。野茂がデビューして以降、四半世紀の間に海外フリーエージェント権やポスティングシステムも整備され、今季も筒香嘉智、秋山翔吾、山口俊らが移籍するなど実に58人の日本出身のメジャーリーガーが誕生している。野茂が時代を動かした。

 95年5月4日付のスポニチ東京紙面。野茂の偉業を伝える記事は3面だった。1面はオウム真理教の青山吉伸弁護士逮捕のニュース。これもまた「時代」だった。

 ≪長嶋監督が、王監督が、ボンズが絶賛≫当時の紙面の見出しはメジャーデビューでジャイアンツを5回1安打無失点、7奪三振に抑えた野茂について「歴史変えた91球!」。巨人・長嶋監督、ダイエー(現ソフトバンク)・王監督、対戦したバリー・ボンズの「直球、カーブ、フォークボールとも全てメジャー級」という称賛のコメントも掲載している。この年、野茂は新人王を獲得し、その後は2度のノーヒットノーランも記録するなど12年間で123勝。まさに新たな歴史の第一歩だった。

 ≪20歳のラミレス監督と“同じチーム”≫野茂のメジャーデビューとDeNA・ラミレス監督が交差していたことはあまり知られていない。野茂はデビューの直前、95年4月27日に1Aベーカーズフィールドの一員として登板。中4日で調整するためのマウンドだったが、その際に外野を守っていたのがラミレス監督だった。当時はインディアンスのマイナーに所属。特例で他球団から招集されていたという。ラミレス監督はまだ20歳の若さ。野茂は求められるままにボールなどにサインし、ラミレス監督も手にしたという。

 ≪青と赤2人の先駆者を見た広報≫ド軍時代の野茂の担当広報は現エンゼルス広報で日本人の両親を持つグレース・マクナミーさん(47)。「当時のメディアの方々はMLBの取材の仕方が分からなかったし、私たちも対応の仕方が分からなくて大変でした」と振り返る。18年に大谷と同時にエ軍入りしたマクナミーさんは、日本が誇る2人のパイオニアに携わり「青から赤へ、16番から17番へ。不思議ですね」と笑った。

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