【タテジマへの道】梅野隆太郎編<上>外野手から始まった野球人生

[ 2020年4月15日 15:00 ]

阪神の梅野は、福工大城東3年夏には3番として好成績を残すも、県大会準々決勝で敗退

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けて、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。第2回は13年ドラフトで4位指名された梅野隆太郎編を、2日連続で配信する。

 抜群の統率力に加え、持ち前の打撃で扇の要を本気で狙っている。視線は「虎の正捕手」一本。幼少期から壮絶な人生を送ってきた男の、第二の野球人生が幕を開ける。

 隆太郎が野球と出合ったのは片縄小2年のときだ。「草野球をやっていた父・義隆さん(48)に連れられて、野球に親しんでいった」。片縄ビクトリーズで外野手として白球を追い始める。小4からは今の“職場”である捕手としてプレー。那珂川北中では那珂川シャークスに所属。投手からの信頼も厚い司令塔。リードもさえ渡り、打順も4番。名実ともにチームの核となり、数々の大会で優勝に導いた。

 「入ってきたときから打撃は良かった。ただ、上級生にいい捕手がいたので、打撃を生かすためにも外野で起用することもありましたね」

 卒業後は福岡工大城東に入学した。隆太郎を見た当時の杉山繁俊現東海大五監督(56)はその素質に一瞬にしてほれ込んだ。「打球を飛ばす力も持っているし、本当によく練習した」。積極的に試合に使い、練習試合ではマスクもかぶった。ただ、1学年上に尾嶋祐輔捕手(現明治安田生命)がいたため、隆太郎に公式戦での出場機会は巡ってこなかった。

 打撃力は秀でていた。1年夏からベンチ入り。秋からは一時外野に転向し、2年夏は「5番・左翼」で県大会8強入りに貢献した。福岡県の高校野球界では当時、東筑紫学園・小関翔太(現楽天)、九州国際大付・河野元貴(現巨人)ら捕手が豊作だった。“三羽ガラス”としてしのぎを削った。「打撃は梅野がトップ」という見方が大半を占めていた。

 3年夏は優勝候補の一角に挙げられたが、筑陽学園に2対4で敗れ県大会準々決勝で敗退した。ただ、3番として16打数8安打で打率・500、2本塁打、6打点をマーク。5回戦の折尾愛真戦では左翼へ推定130メートルの場外弾を放ち、スカウト陣の度肝を抜いたが、甲子園の神様がほほ笑むことはなかった。杉山元監督は、隆太郎の3年間を笑顔で振り返る。

 「3年生になって、責任感というのもあったのでしょう。ハーフスイングやストライク、ボールの判定で、球審に不服な表情を浮かべることがありました。注意したのはその点くらいですかね。本当にいい選手でした」

 そして福岡大で素質が一気に開花する。1年春から全試合出場。秋からは正捕手としてマスクをかぶった。2年夏、そして今夏の日米大学野球選手権では全戦先発。2年時には藤岡(現ロッテ)や野村(現広島)、菅野(現巨人)ら実力派の球を受け、自らのエキスに変え、今夏は地方大学の選手として初となる主将も務めた。

 樋口修二監督(62)は「結構やんちゃで、カーッとなる性格でもあったが、2年で日本代表に選ばれ、行動や性格が変わった」と成長を感じ取る。世界を舞台にして戦い、もがき、経験値を得た。そんな22歳に、ずっと見えない力を与えてくれる存在がいた。(2013年11月7日付掲載、あすに続く)

 ◆梅野 隆太郎(うめの・りゅうたろう)1991年(平3)6月17日生まれ、福岡県出身の22歳。小2で野球を始め、小4から捕手。福岡工大城東では1年夏からベンチ入りも甲子園出場はなし。福岡大では1年秋から6季連続ベストナイン。4年春はMVPに輝き、同年夏の日米大学野球では日本代表主将を務める。遠投115メートル。1メートル73、89キロ。右投げ右打ち。

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