エンブレム選考 問題は「透明性」ではない…新国立と変わらぬ“本質”

[ 2016年4月28日 08:10 ]

東京2020大会エンブレム発表会でフォトセッションに臨む(左から)王貞治委員、宮田亮平委員長、野老朝雄さん、武藤敏郎事務総長

 20年東京五輪の公式エンブレムがようやく決着した。選ばれたデザイン、個人的には嫌いではない。ただ、撤回した前デザインと同じように「展開力」つまり商品化や広告宣伝活用の利便性が最優先された印象は残った。それが時代の要請であることは間違いないのだろう。

 さて、その4月25日。エンブレム委員を務めた王貞治・福岡ソフトバンクホークス球団会長の会見場での言葉が染みた。最終候補4作品を公開後に国民から寄せられた約11万件の意見についてどう扱ったのかについて問われた王氏は、こう答えている。

 「(最終的に決まった)A案についてだけでも7~8ページ分あった。なるほど、そういう見方もあるんだと勉強になる部分もあった。でも、私は委員として投票する権利があり、責任があるので、自分としてはこの作品がいい、と思ったものに投票しました」

 断っておくが、王氏がどの作品に投票したかは明らかにしていない。印象に残ったのは、最後は自分で選んだ、という部分だ。

 最初のエンブレムが撤回されて以降、組織委員会がこだわったのが「透明性」。高いハードルを設けていた募集条件を一気に緩和。エンブレム委員会の様子をネットで中継したり、最終候補4作品を公表したり、と工夫は認めたい。しかし、最終候補4作品の作者は全員、プロフェッショナル。そして、国民投票は行われなかった。エンブレムは五輪の運営費用などに直結する、唯一無二に近い財産だ。高い専門性を考えれば、当然のことだろう。

 では、透明性とは何だったのか?これだけ専門性が必要な作業に、誰でも参加できるポーズをとること?その方法論は「みんなも参加したよね?だから責任はみんなにもあるよね?」という安っぽい連帯感が込められているように思う。言い換えれば、責任ある立場の人間の責任放棄の一手法に過ぎないのではないか、ということだ。

 王氏の発言は、与えられた責任を果たし、権利を行使したという自負が込められていた。大人が与えられた役割を果たすということは、そういうことではないか。問題が起きたケースで誰がどう責任をとるのかさえ明確化していれば「透明性」は最初から大きな問題ではなかったのでは、とも思う。問題の本質は、新国立競技場の白紙撤回と何も変わらず、今回も根本的な解決にいたらなかったと分析すると、この先も何か波乱の予感はする。(首藤 昌史)

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2016年4月28日のニュース