「地獄の3年」乗り越え…橋之助 覚悟決まった三津五郎さん“遺言”

[ 2016年9月11日 10:35 ]

インタビューに答える中村橋之助

 歌舞伎俳優の中村橋之助(51)が、10月と11月の東京・歌舞伎座で「八代目中村芝翫(しかん)」の襲名披露公演を行う。中村国生(20)、宗生(18)、宜生(15)の3人の息子も襲名し、親子4人の同時襲名披露公演は歌舞伎界史上初の快挙となる。心から慕っていた義兄の中村勘三郎さん、先輩の坂東三津五郎さんが早世し、深い喪失感を抱きながらも、橋之助は強い気持ちで稽古に励んでいる。

 橋之助を襲名して37年目。いくつもの修羅場をくぐり抜けてきたはずの歌舞伎役者が「つい先日の朝も、今から舞台なのに稽古を全くしていない夢を見て跳び起きました」と苦笑いした。大名跡の襲名披露となれば一世一代の公演。悪い夢も思わず見てしまうほどの重圧というわけだ。

 10、11月と2カ月にわたる公演。過去には1985年の故市川団十郎さんと2005年の故中村勘三郎さんの3カ月襲名披露公演が最長で、それに次ぐ。

 10月は源義経の家臣・熊谷直実の苦悩を描く「熊谷陣屋」が注目。江戸から明治にかけて活躍した四代目中村芝翫の得意演目で「芝翫襲名」にはもってこいの作品だ。11月の「連獅子」は、獅子が可愛い子供を谷底へ落とす逸話を舞踊にしたもので、通常は親子2人で演じる。勘三郎さんが襲名披露で中村勘九郎・七之助兄弟と親子3人で演じたのを参考に「親子4人でやってみようと思っているんです」と明かした。

 義兄にあたる勘三郎さんはいつも目をかけてくれた。通常公演だけでなく、平成中村座、コクーン歌舞伎など、勘三郎さんが立ち上げた画期的な公演からはいつも声が掛かった。その勘三郎さんは12年12月に57歳の若さで亡くなった。

 「とてつもなくショックでした」と橋之助は当時を振り返る。「ずっと背中を追い続けていました。少し追いついたかな、と思ったらまた離され、また追いついたかな、と思ったら離されている。ずっとこうして一生歩んでいくのかな、と思っていました」。

 勘三郎さんが亡くなる前年には実父で先代の芝翫さんが亡くなった。さらに13年には実兄の中村福助(55)が脳内出血で倒れた。何とか一命は取り留めたが、今も舞台復帰のめどは立っていない。

 「あの3年間は私にとって地獄のようでした。自分も近いうちに溶けて消えてしまうのではないだろうか、という思いがしばらく頭から離れなかった」というほど思い詰めた。

 追い打ちをかけるように、勘三郎さんの盟友だった坂東三津五郎さんも昨年2月に59歳で亡くなった。その三津五郎さんが亡くなる6日前、橋之助に直接“遺言”を残した。「やり残したことはいっぱいある。ノリちゃん(勘三郎さん)もそうだろう。だから幸二(橋之助の本名)には歌舞伎界のことを頼みたい」

 まだまだ旗を振る器とは思っていなかったが、無念を残した三津五郎さんの言葉に「覚悟が決まりました」と言う。

 それから積極的に先輩役者と共演し、暇があれば稽古をつけてもらった。中でも関西での歌舞伎公演で実現した人間国宝・片岡仁左衛門(72)との共演は貴重だった。

 「あんたの芝居はうるさいわ、と言われたんです。力の入る役で文字通り汗だくで演じていたんですが、仁左衛門さんが演じると自然体で涼やか。襲名でどこか気負いもあったのでしょう。気が楽になった思いがしましたね」。さまざまなものを背負う後輩への、仁左衛門なりの思いやりだったのだろう。

 先月28日の歌舞伎座の「納涼歌舞伎」で橋之助最後の舞台を終えた。楽屋に戻ると出演者全員が残り、紙吹雪を降らせた。ねぎらいと同時に、歌舞伎界のけん引役になる覚悟を決めた男へのエール。「いやー泣けました、思わず」と少しはにかんだ笑顔を見せた。

 ◆中村 橋之助(なかむら・はしのすけ)1965年(昭40)8月31日、東京都生まれの51歳。70年5月、国立劇場「柳影澤蛍火」で本名の中村幸二で初舞台。80年4月、三代目中村橋之助を襲名。立役として時代物、世話物、舞踊など幅広い分野で活躍する。テレビ、映画にも多数出演。97年NHK大河ドラマ「毛利元就」では主演を務めた。11年、日本芸術院賞を受賞。

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