【2】デビュー決定から「事実」が誕生するまで

[ 2010年4月6日 06:00 ]

インタビューに応える中川あゆみ

 6歳の時に、美容院を営んでいた両親が離婚した。捨てられた。そう思った。

 「やっぱり離婚したあとすぐは、幼くてよく意味がわからなかったので、いつ帰ってくるんだろうと思っていた。だから、最初はなんだ帰ってこないじゃん…みたいな。あぁ私は捨てられたんだろうなと思った。それで、くよくよしたりいじけてた」。

 時が経つにつれて「離婚」という事実を理解するようになった。そして下した決断は、実の両親との決別。小学3年生の時に誓った。

 「ずっと自分の中で考えていて、この先恨んでいても仕方ないと思った。私には自分の人生があって、自分しか変えられない。自分で自分のことを幸せにしようと思って。恨んでばかりじゃ何も始まらない。前向きに生きていこうと考えて、意識しはじめた」。

 ところが、小学校の卒業式。突然、サングラスをかけた実母が目の前に現れた。「テレビ見てるからね。応援してるからね」と言われたという。

 「急に来て、何でいまさら?と思った。手紙を渡された瞬間、えっもう他人じゃないのかなと。そこで(頭の中が)ぐちゃぐちゃになって、つい破り捨てちゃった。言葉も出なくて・・・。呆然として」。

 自分で自分の人生を築く=歌手になる。ギター教室に通いながら、週末は路上に出向いてがむしゃらに腕を磨いた。夢のため小学校4年生からオーディションにも参加した。最後まで残るものの落選。3年が経った。3度目の正直となる2008年に転機は訪れた。

 「6年生でオーディションを受けたときも賞が取れなくて、ガックシしていたら、Yさんという作詞家の方から連絡を受けた。ちょっと話し合ってみないかと。そこが始まり」。

 中川あゆみが世に出るきっかけがこのY氏との出会いだった。時間をかけて話し合った。過去から何からすべてを打ち明けた。

 「“そういう過去があるなら、同じような環境の人も多いから、メッセージソングを作れるんじゃないか”と言ってくださった」。

 ここにデビュー曲「事実~12歳で私が決めたこと~」の原型が誕生する。以前から抱いていた「自分が誰かの役に立てることはないか」という思いを叶えるため、導き出した結論は自分が体験した「事実」を包み隠さず語ることだった。

 「前から心の底から、そういう風に思っていて、何か私が役に立てることはないかと。そこで、(Y氏と話し合いを重ねるうちに)事実を歌おうということになった。夢とか希望を歌っても、あゆみにはやっぱり説得力がない。経験していないことだから。恋愛とかも。そういうのを歌っても伝わらないと思った」。

 08年にデビューが正式に決定。Y氏の協力を得て作詞に挑戦し、09年は曲の制作期間に費やした。完成した自分の曲を初めて聞いたとき、「心の中にスッと入ってきた」と振り返る。

 「これで、何かの人の役に立てたらなという感じでした。そうですね…。クヨクヨしている人とかに前向きに生きてほしいと思いました」。

 日本における全国の離婚件数25万件(平成18年度)。全国の棄児件数は年間約490件(平成16年度)。あゆみも身を持って経験した1人だ。そんな自分だからこそ伝えられるメッセージがある。

 「誰かの役に立ちたい」。13年間の人生を詰め込んだ曲を、聞いてほしい人はこの時代いくらでもいる。

 「同じ環境の子とか、お子さんを持つ親御さんとか、悩んでいる人から、壁にぶつかってる人に聞いてもらえたら」

 5月5日に念願の全国デビューを果たす。本格的にプロの歌手としての活動を開始する。

 「ついにこの歌を全国の皆さんに届けられる。(5月4日の誕生日で)14歳になるし、ゴールデンウィークと重なって、2大ハッピーな感じですね」。

 名前のごとく自らの力で大きな大きな“歩み”を進める中学2年生。悲壮感はどこにもない。自分で決めたことだから。そんな自信が、澄んだ瞳に映っていた。

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2010年4月6日のニュース