追悼連載~「コービー激動の41年」その64 ラプターズが感じていた81得点の「正義」

[ 2020年4月20日 08:06 ]

81得点を挙げたブライアントと対戦したラプターズのジェーレン・ローズ氏(左=AP)
Photo By スポニチ

 2006年1月22日。ラプターズ戦で歴代2位の81得点をマークしたコービー・ブライアントは試合後、「たまたまこうなっただけ。夢に描いたこともなかった。なぜ後半になってスイッチが入ったかと言えば、それは“W(勝利)”のためだったから。集中しようと覚悟を決めてプレーしただけ。チームにはそれが必要だった。得点はあくまで機械的なものにすぎない」といたってクールな表情だった。と言うより、なにひとつエキサイトするポーズは見せなかった。

 42分出場して実に46本ものフィールドゴール(FG)を放ち、このうち28本を成功。これだけの高得点にもかかわらず3点シュートの成功は7本(試投13本)で、インサイドを何度も攻め立てたことが功を奏して、20本中18本を決めたフリースローが記録達成に大きく貢献していた。すでに現在のNBAでは基本のスキルとなっているユーロステップやステップバックによるジャンプシュートを駆使することなく81得点まで到達。もしあの時、ブライアントが“最新技術”を導入していたら、さらに数字は増えていたかもしれない。

 では対戦していたラプターズの面々にブライアントの姿はどう映っていたのだろう?なにしろ先発5人の合計得点は80。後半は2人、3人がかりでブライアントを止めようとしたが最後まで阻止できず、5人で敵方1人の得点より下回ったのだからかなり悔しかったはずだ。しかし17得点を挙げたジェーレン・ローズ(当時33歳)はやがてテレビの解説者になったときにこうふり返っていた。

 「コービーは決して胸をたたいて歓喜したり、観客に向かって手を振ったりはしなかった。トラッシュトーク(選手同士によるののしり合い)もしなかった。もし彼がそんなことをしていたら、僕らはコート上で彼をフィジカルでつぶしたいという気分になっていただろうね」。

 最後までブライアントがクールにプレーしたことで、ラプターズの面々はダーティーなディフェンスをすることができなかった。感情をあふれさせることなく淡々とプレーを重ねていた相手のエースを、ルールを無視して力づくで抑え込むということができなかったのである。つまりそれは正々堂々と戦っていた者への“礼儀”とも言える。ここが両軍ともにファウルを重ねて時間を止め続けたウィルト・チェンバレンの「100得点ゲーム」とは大きく違う部分でもある。

 「見ていて疲れたよ。驚くべき試合内容。信じられないよ」。2003年シーズン終了後、ブライアントとの関係悪化で一度はレイカーズを離れたフィル・ジャクソン監督にとっても、それは自身が目にしたことのなかったブライアントの姿だった。感情もエゴも出さずに81得点をたたき出してチームを勝利に導いた圧巻のパフォーマンス。それはやがて、現役最後の試合で60得点をマークするブライアントの“近未来”を暗示するようなプレーだった。

 しかし“出戻り監督”にとってNBAの世界はやはり厳しかった。2006年5月2日、レイカーズは敵地フェニックスで行われたプレーオフ西地区1回戦ではサンズに3勝4敗で敗れた。結局ファイナルでマーベリクスを4勝2敗で下して初優勝を飾ったのは、ブライアントとの不仲に嫌気がさしてレイカーズを出ていったシャキール・オニールのいるヒート。ブライアントのいるチームは負け、オニールのいるチームが勝つという図式はレイカーズ関係者をいらつかせたかもしれない。

 翌2006~07年シーズンも1回戦でサンズの前に1勝4敗で敗退。ジャクソンの目指す王座奪回は「幻」のようになりかけ、ブライアントはこの2シーズンでいずれもリーグの得点王になりながら、そのカリスマ性に疑問符が付き始めた。

 ブライアント1人のチームでは優勝はできない…。2007年シーズンを前にしてフロントが再び動き始めた。そしてブライアントの“同期生”が戻ってくる。さらにシーズン途中で大型トレードが成立。ブライアントは再び頂点を視野にとらえた。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

続きを表示

2020年4月20日のニュース