8月15日と9月2日 戦争が終わった2つの記念日に今、思うこと

[ 2017年8月15日 11:20 ]

「終戦記念日」の正午に戦没者の冥福を祈り、黙とうする両チームの選手たち(2011年撮影)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1990年代、米国で取材をしていた時、親しくなった現地の記者に「誕生日はいつだい?」と聞かれたことがある。「日本で戦争が終わった日だよ」と答えると「そうかい9月2日なのか…」と言われてきょとん。しばしの間を置いて、彼が意味したのは米国にとっての対日戦勝記念日、つまり日本がポツダム宣言による降伏文書に正式に署名した日だったことがわかった。

 第2次世界大戦が終わった日。日本と米国、あるいはそれ以外の国々ではそのとらえ方が違う。だから自分の本当の誕生日をその記者に説明するのには時間がかかった。カリフォルニア州出身の彼は広島と長崎に原爆が落とされた日は知っていたが、8月15日に日本で何が起こったのかは知らなかった。

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 NBAで最初にプレーした日本人選手は田臥勇太(36=現・栃木ブレックス)ということになっている。2004年、サンズで4試合に出場。これが日本のスポーツ界の新たな領域における第1歩だった。

 しかしその57年前となる1947年、ニックス(当時のリーグ名はBAA)がドラフトで「WAT・MISAKA(ワット、もしくはワッツ・ミサカ)」という選手を指名。1944年に全米大学選手権で優勝を飾っていたユタ大のガードだった。両親が広島出身の日系2世。だから「三阪亙」こそがNBAで最初にプレーした“日本選手”なのだが、この事実は田臥がサンズに入団するまで長い間、スポーツ史の中で埋もれていた感がある。

 ミサカ氏のニックスでの出場は3試合のみ。得点力(計7点)が乏しく、それが解雇される要因になったとされている。その一方で、当時の監督が日系人に対して嫌悪感を抱いていたという見方もあり、舞台裏で何があったのかはよくわかっていない。あえてミサカと表記したが三阪でもいいと思う。なぜなら当時、彼は米国と日本の二重国籍を保持。ここに彼の人生を象徴する苦悩が見え隠れしている。

 戦時中、ミサカ氏は米国陸軍情報部に入隊。9月2日はフィリピン・マニラの基地に向かう航海の最中に迎えた。戦後は両親の郷里でもある広島の地を踏み、原爆投下後の現地調査を担当。その後、東京にも赴任し1946年7月、2年間の兵役を経てユタ大に復帰した。

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 米国の日系人兵士は各地で多くの功績を残しながら戦後は冷遇された。真珠湾を攻撃したのが日本であり、そのもっとも憎むべき国からやってきたと見られた人たちは、どんなに過酷な任務をこなしてもそれを評価してもらえなかった。おそらくミサカ氏がニックスを追われた理由は、戦争がもたらした誤解、偏見、差別といった暗部の中にあると思うのだが、語り部が少なくなっている現在、真実を見極めるのは困難になってきた。

 強制収容所での待遇を含め、当時の日系人への対処の仕方に対して米国のレーガン大統領が謝罪したのは1988年。戦後43年も経過してからだった。ひとたび戦争を引き起こしてしまうと、多くの案件が解決までに膨大な時間を費やし、肉体的に健康であっても心の傷は癒える事がない。戦勝国にいた日系人の心の叫び。それは永久に途絶えることがないのかもしれない。

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 海軍士官学校にいた私の父は1945年8月6日、瀬戸内海から広島方面の空を切り裂いた“巨大な光”を目撃している。その当時、父は人間魚雷「回天」での出撃を覚悟していたのだと語っていた。この時期になると戦争の話をよくしていたものだが、寝たきりとなった現在は語り部の役目をすることができなくなった。

 ニックスを去ったあとにエンジニアとなったミサカ氏は93歳で健在。戦争のない時代にニックスに入団していたらどうなっていただろうか?NBAの原稿を書くと、幾度となくそう思うことがある。そして戦争のない時代を父が過ごしていたらその後の人生はどうなっていただろうか…。誕生日なのに黙とうを捧げる日がやってくるたびに、自分が存在している意味を考えることがある。

 8月15日と9月2日。膨大な物語のわずかなひとコマでしかないが、さて私は何か伝えることができただろうか?「まだおまえは未熟だ」。そんな父の声が耳元で聞こえてくるような気がしてならない。 (専門委員)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、佐賀県嬉野町生まれ。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。スーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会に6年連続で出場。

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