“サーフィンの申し子”大橋 亡き父と親子2代の夢「かなった」

[ 2016年8月5日 05:30 ]

サーフィンの(左から)仲村拓久未、石川拳大、田代凪沙、大村奈央、新井洋人、大野修聖

20年東京五輪追加5種目正式決定

 サーファーとしては無縁だったはずの大舞台が4年後にやってくる。「五輪はテレビの世界だった」という大橋海人は、日本時間午前4時50分ごろの追加競技正式決定の発表とともに、まわりの選手たちとハイタッチを交わして喜び合い「夢がかなった」と端正なマスクをほころばせた。

 この世に生を受けた時からサーフィンの申し子だった。プロサーファーだった父の勧(すすむ)さんに海人と名付けられ、3歳で両腕に浮き輪を巻き付け、父の操るボードに乗った。4歳になると1人でボードを乗りこなすようになり、キッズ時代から国内の大会を転戦。「同じ波は一つとない。そこに魅力があります」と目を輝かせた。

 ひとたび波頭をとらえればギャラリーを引きつける技の数々は、父のスパルタ教育のたまものだ。起床は毎朝5時。ボードを載せた自転車を漕ぐ父から「自転車よりも前を走れ」と厳命され、海岸までのランニングがウオーミングアップになる。海で1時間の練習をこなすと、そのまま学校へ直行。友達と遊ぶ約束をしていても「父が校門の前で待っていた」そうで、放課後も練習に明け暮れた。

 サーファーらしく小1のころには「髪が腰くらいまで長かった」が、もちろんそこはスパルタの父。大会で優勝を逃すと大橋が坊主頭にするのはもちろん、連帯責任として父と2人の弟まで丸刈りに。「弟からは“兄ちゃんのせいだ”と何度も言われましたね」と振り返る。インフルエンザで学校を休んだ日も、父に「海に入れば治る」と言われて練習した。「もう時効ですね」と懐かしく振り返る日々が、トップサーファーに押し上げた。

 そんな勧さんだが、11年5月に心筋梗塞のため51歳の若さで他界した。まだ20年東京五輪の開催が決まる前に亡くなった勧さんだが、生前から五輪競技になることを夢見ていたという。「ずっと“世界王者になれ”と言われていた」と話す大橋にとって、五輪出場、そして金メダルは父子2代の夢。天国の父も見守るTOKYOの海で、ビッグエアーを決める。

 ◆大橋 海人(おおはし・かいと)1992年(平4)2月16日、神奈川県茅ケ崎市生まれの24歳。父の影響で3歳からサーフィンを始め、09年にプロ転向して日本サーフィン連盟(JPSA)の新人賞に輝く。13年には24年ぶりに開催された「稲村サーフィンクラシック」で優勝した。JPSA強化指定A選手。1メートル70、69キロ。

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