なぜカタカナ?20年東京五輪パラをめぐる言葉を考える

[ 2016年2月17日 09:40 ]

昨年11月、2020年東京パラリンピックのPRとして行われた「パラ駅伝 in TOKYO2015」は駒沢陸上競技場が満員に

 単語の数を減らしていけば、思考の幅が狭まる。そう教えてくれたのはジョージ・オーウェルの「1984」だった。逆説的に言えば、単語の数が増えていけば表現する内容が豊かになる。子どもの成長を見ていれば、それも証明されたような気がしている。

 新しい単語とは、新しい考え方そのもの。一方で、新しい単語に対するアレルギーは、好奇心と同じくらい強いのが現実だ。20年東京五輪パラリンピックを迎えるにあたり、なぜか大量発生しているカタカナ言葉が気になって仕方ない。なにせ招致時から目指したのは「史上もっともイノベーティブな大会」である。あくまで「革新的な大会」ではなかった。

 例えば、パラリンピックの開催意義を説くのに多用される「ダイバーシティー」。多様性を認める社会を指すことが多いようだが、なぜかうさん臭い感じがして背中がムズがゆくなる。決して、東京のとある商業施設を想起させるからではないと思うが。

 もう1つ、気になるキーワードが「サスティナビリティー」。日本語では持続可能性と訳されるが、よくよく考えれば「持続」とはすでに未来について言及したもの。意地悪な言い方をすれば、持続ということがすでに「可能性」でしかない。そんな言葉が2つ組み合わされると、これもまた、うさん臭さ半端ないのである。

 前述の2つの言葉は現代の日本にとっても必要で、大切にしなければならない考え方であることに異論はない。多様性を認め合う社会はきっと誰にとっても優しいだろうし、子どもたちの選択肢を維持する意味でもあらゆるサイクルは止まるより回り続けることが望ましいに決まっている。ただし、その考え方がどこかよそよそしいカタカナ語でしか示されないとすれば、定着は難しい。

 カギを握るのは、言葉を振りまきながら大会準備を進める人々の行動にあるのではないか、とみている。実が伴ってこそ言葉は生き、共通語、つまり共通の考え方になっていくのだから。ちょっと匂いを感じさせるだけの「薄っぺらい」言葉にだけは、してほしくないのが本心である。(首藤 昌史)

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2016年2月17日のニュース