【日本ダービー】父・洋一氏の初騎乗から49年越し 平成最後のダービーで悲願成就

[ 2018年5月28日 05:30 ]

ダービー初制覇の福永(撮影・村上 大輔)
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 現在は自宅で訪問介護を受ける父・洋一氏の姿は東京競馬場にはなかった。それでも、一番でゴールを駆け抜けた愛息の雄姿は生涯最高の喜びだっただろう。自身のダービー初騎乗が1970年。福永家の悲願は昭和を通り過ぎ、平成最後のダービーで49年越しで成就された。

 7人兄弟の末っ子として高知県に生まれた。父親は戦時中の空襲によって何度も自宅を奪われており、生活環境は厳しかった。洋一少年は幼少期から釣った魚を売り、競馬新聞の売り子をしたこともあった。極貧と飢餓の日常を生きてきたからだろう。兄・甲(はじめ)氏の背中を追ってJRA騎手になり、「天才ジョッキー」の称号をほしいままにしても、ハングリー精神は変わりなかった。「ええか、俺はいつでも必死なんや。遊びで乗ってるんと違うで」。ある競馬関係者が「洋一、たまには兄貴に勝たせてやれよ」と冗談で言ったところ、そう怒気を含んだ声が返ってきたとの逸話がある。

 70年から9年連続でリーディングジョッキーとなったが、長男・祐一がまだ2歳だった79年の毎日杯で落馬。重度の脳障害を負って一時は危篤状態に陥った。それでも、不屈の魂で死の淵からはい上がった。渡米して「ドーマン法」という機能回復訓練を取り入れると、マヒしていた手足が徐々に動くようになった。過酷を極めたリハビリに挑み続け、いつしか言葉を理解するまでに回復し、事故から約6年後には栗東トレセンを訪れて乗馬にも挑戦。その時に洋一氏が口ずさんだのが、ペギー葉山の昭和の大ヒット曲「南国土佐を後にして」だったという。

 そんな父を見てきたからこそ、息子はいつしかこんな言葉を口にするようになった。

 「ずっと父の背中を追ってきたが、近づくにつれて遠ざかった気がする。高知(が生んだ偉人)といえば、坂本龍馬と福永洋一だと思います」――

 ◆福永 洋一(ふくなが・よういち)1948年(昭23)12月18日生まれ、高知県高知市出身の69歳。岡部幸雄元騎手、柴田政人現調教師、伊藤正徳現調教師らと同期で68年に騎手デビュー。“花の15期生”と呼ばれた。77年には当時の最多勝126勝、78年に131勝に記録更新した。81年に引退。生涯成績は5086戦983勝。重賞49勝(G1級9勝)。04年にJRAの騎手顕彰者として競馬の殿堂入り。

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