萩本欽一 芸人でもタブー…でも、戦争の記憶、聞くことが「礼儀」 終戦時4歳“最後の世代”から“欽言”

[ 2025年8月13日 05:00 ]

南稲荷町の前の生家の前で写真に納まる幼少期の萩本欽一
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  【戦後80年 あしたのために】戦争の記憶を聞き、次世代に語り継ぐべきものを考える。コメディアンの萩本欽一(84)は、今も悔いを抱えている。「視聴率100%男」と呼ばれ、戦後の日本を笑いで明るく照らした男は、“聞くこと”の大切さを訴える。

 4歳で迎えた終戦。かすかに残るのは灯火管制の記憶だけだ。

 「頭巾をかぶらされ、窓は真っ黒に塗って…。夜に明かりをつけると爆弾が降ってくるから、どんなことがあっても電気はつけちゃいけないよと、お母さんが言ってた」

 敵機の夜襲で標的にされないよう、部屋の明かりが戸外に漏れないようにしたが、いつの記憶か定かではない。生まれは東京の下町・南稲荷町(現台東区東上野)。疎開先の浦和(現さいたま市)で終戦を迎えた。暮らしは比較的裕福だった。父が戦時中に集めた故障品や部品でカメラの製造と販売を手掛けて成功。だが、事業が傾くと追われるように南稲荷町に戻った。

 「帰ってきたら昔と同じ景色だった。(生家は)そのままで残っていました」

 焦土と化した近隣の浅草などと違い、生家のあった下谷神社周辺は奇跡的に戦火を逃れた。両親兄弟も健在で、戦争はどこか“人ごと”だった。それだけに、貧困から都内を転々とし、一発逆転を夢見て浅草・東洋劇場の門を叩いた18歳の時、先輩芸人に「お前、どっちがいないんだ?」と聞かれて戸惑った。

 「何の話ですか?って返したら“親だよ”って。両親いますと答えたら“お前な、そういうやつが来るとこじゃねえよ!”と言われた」

 戦火で親を亡くした子供があふれていた時代。浅草は身寄りのない人々が夢を求め、たどり着く場所でもあった。きらびやかなステージの裏にある暗い影。傷痕はまだ生々しく、戦争の話をすることははばかられた。

 「聞けなかった。戦争の話も一切出ない。戦争という言葉を入れて自分を語る人は一人もいなかった」

 芸人の間でも過去を聞くことはタブーだった。昭和を代表するコメディアンの一人で、自身の師匠である東八郎さんに言われた。

 「とにかくこの世界に入ったら、あんまり個人的なことは質問しない。それは知っておいて…と」

 「浅草の師匠」と呼ばれ、東さんやビートたけし(78)も師事した深見千三郎さんは左指4本がなかった。

 「最初に会った時は手拭いを巻いてたわけ。東さんに聞いたら“お仕事中に苦労があったんだよ”としか言わない。軍需工場での事故が原因だったみたいなんだけど、軍需工場という言葉は誰も使わなかった」。

 ただ、父や先輩芸人らが経験した戦争を、最近まで聞かなかったことを後悔している。80年を迎える今、自戒を込めて言う。

 「聞いておけば良かった。最も大事な親孝行は歴史を聞いてあげること」

 平和な今だからこそ、戦争の記憶が重要になる。

 「質問することで歴史が刻まれていく。ぜひ語ってほしいし、若者もやっぱり聞こうよ。聞かないのが礼儀みたいになっているけど、礼儀は聞くことじゃないかな」

 戦争を知る最後の世代として、戦後生まれに伝えたい“欽言”だ。(前田 拓磨)

 ◇萩本 欽一(はぎもと・きんいち)1941年(昭16)5月7日生まれ、東京都出身の84歳。高校卒業後、浅草東洋劇場の軽演劇の一座に加わる。66年に坂上二郎さんと「コント55号」を結成。数々の番組でMCを務め代表作に「欽ちゃんのドンとやってみよう!」「スター誕生!」など。日本テレビ「全日本仮装大賞」では第1回から司会を務める。レギュラー番組が軒並み高視聴率を記録し「視聴率100%男」の異名を取る。

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