【売野雅勇 我が道5】映像で影響を受けたアラン・ドロンと日本人俳優

[ 2025年8月5日 07:00 ]

1963年、初来日時のアラン・ドロンさん

 映像で衝撃を受けた初めての経験は小学6年生の時。1963年3月に「フランス映画祭」に出席するため初来日したアラン・ドロンでした。

 テレビのモーニング・ショーで目にした瞬間「何てキレイな男がいるんだろう」とくぎ付けに。周囲にいた男の人は例外なくラウンド型の時計を左手首にしていたけど、彼は小さくて四角い文字盤の時計をしていた。しかもそれをワイシャツの袖口の上にしていたから仰天しました。

 翌年の秋には、小学校で先生をしていた父が、東京書籍という教科書の出版社からもらった招待券を手に、ひとりで東京五輪を見に行きました。国立代々木競技場で行われた競泳。選手の写真をたくさん撮ろうと大型のカメラを借りて行ったのですが、生まれて初めて見る外国人の姿に目を奪われました。

 目が青いこと、髪だけじゃなく、背中にも金髪の産毛が生えていることなど驚きの連続で、観客席ばかり撮っていました。

 初めて彼女ができた中学3年の時、つけたテレビの前で動けなくなりました。伊丹一三時代の伊丹十三が初めて連続ドラマに出演したNHKの「あしたの家族」です。医師の家族の日常を舞台に、身近な問題を描いた作品で、宮本信子と夫婦役で出演していました。当時、世間からは「大根役者」と言われていたようですが、僕は全然そんなふうに思わなかった。強烈な個性と新しいスタイルの演技を見ていて「何でこんなに違うんだろう。素敵だなぁ」と憧れました。

 高校時代に雑誌「週刊文春」で伊丹の連載が始まると、見開きの誌面を読むため毎週図書館に通いました。2年の時に出たエッセー集「女たちよ!」は僕のバイブル。食やファッション、恋愛など本物へのこだわりが洗練された文章でまとめられていて、暗記するくらい読みました。「カラシ色のタートルネック」とあれば似たものを探し回った。俳優になろうと考えた時期もあったし、上京してから付き合う女の子には必ず「これを読んで」と本を贈るほど影響を受けました。

 伊丹の出演映画「昭和元禄 TOKYO196X年」が公開された時は、ガラス張りの劇場窓口に飾ってあったスチル写真を拝借したこともあったくらいクレージーな伊丹ファンでした。異端の人を「好きだ!」と言いづらい時代、伊丹一三を熱烈に好きだということは誰にも秘密にしていました。

 ところで伊丹はこのエッセーで、音楽について「心に向かって書かれたのだ」と残しています。

 僕は作詞家として、曲先で詞を考える時は、曲を繰り返し聴いてメロディーが求める言葉を探します。今もこの本のページをめくると、なるほど!と思わせる言葉があふれている。文字通り、人生の道(みち)標(しるべ)になった一冊です。

 ◇売野 雅勇(うりの・まさお)1951年(昭26)2月22日生まれ、栃木県足利市出身の74歳。企業のコピーライターなどを経て、81年作詞家に。中森明菜「少女A」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」などのヒット曲を生み出した。これまでに1500曲以上の歌詞を制作。2026年に活動45年の節目を迎える。

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