【細川たかし 我が道27】妻の死と第二の人生の伴侶 長男は作詞家に

[ 2025年6月28日 07:00 ]

74歳の誕生日を祝ってもらいました。私の隣が妻・喜代美、後列左は彩青(細川たかし公式Xから)

 長男の譲は小さい時から無口でおとなしい子でした。私も和子もにぎやかな方なので、反動だったのかもしれません。手がかからない子でしたが、希望する大学を受け直すため「パパ、1浪させてください。必死に勉強します」と正座して頼んできた姿が忘れられません。大学は文学部に進み、作家になりたい希望があったようです。いつも部屋で何か文章を書いていたイメージがあります。彼が作詞家になったきっかけは、作曲家の弦哲也さんと私が酒を飲んでいた会話です。具体的なやりとりは忘れましたが、弦さんが「譲くんに詞を書いてもらったら…」と勧めたのです。2004年のことでした。

 そうして出来上がった「城崎恋歌」(曲・弦哲也)が譲の作詞家デビュー作で、私の芸能生活30周年記念曲です。由来は忘れましたが「柚木(ゆずき)由柚(ゆゆ)」がペンネームです。彼は志賀直哉作品を愛読していたので、行ったこともない兵庫の城崎を歌の舞台にしたのでしょう。05年1月に発売され、その年の3月に城崎温泉駅前に歌碑もできました。以後、何曲も私の歌の作詞をしています。よくステージも見に来て、作家として私を研究しているようです。

 妻の和子が倒れたのは2010年でした。麻布の自宅で脳梗塞を起こし、救急搬送されました。すぐに回復しましたが、体調に不安を覚えたのでしょう。2年後、東京の家を引き払い、彼女の親戚がいる札幌に引っ越しました。札幌の自宅1階にはカラオケがあり、酒を飲んでカラオケで歌ったりと、しばらくは楽しい日々を過ごしていました。しかし、タバコや酒と長年の不摂生で血管がボロボロになっていました。2度目の脳梗塞で入院。入退院を繰り返し、衰弱していきました。

 18年11月。「移民150年記念美空ひばり音楽祭」でハワイに飛びました。私の不在を見計らったかのように、和子は大動脈破裂を起こし、23日に息を引き取りました。69歳でした。スタッフがその事実を私に伝えたのは、仕事が終わった後でした。国内ならば、仕事を切り上げてすぐに戻れたでしょう。しかし、私の仕事に影響が出ないよう、ハワイに行っている間に、45年間連れ添った和子は一人で旅立ちました。最期まで彼女の気遣いを感じました。

 ところが、拾う神も現れました。70歳を過ぎて、ショックで気落ちしていた私を支えてくれる存在が出てきたのです。仕事で何度か顔を合わせたことがあった喜代美です。最初はスタッフの一人として手伝ってくれていました。フットワークが良いし、かゆいところまで手が届く気配りの主です。食べ物や飲み物も細かくチェックしてくれ、トマトも食べられるようになりました。おかげで無理なく11キロもダイエットすることができました。長男の譲と年齢も近く、友人のように仲良しです。22歳年下の彼女を第二の人生の伴侶と決め、2年前の6月5日に婚姻届を出しました。

 ◇細川 たかし(ほそかわ・たかし)1950年(昭25)6月15日生まれ、北海道出身の75歳。札幌・ススキノのクラブ歌手時代にスカウトされ、75年4月に「心のこり」で日本コロムビアからデビュー、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞。82年「北酒場」、83年「矢切の渡し」で史上初の日本レコード大賞2連覇。84年「浪花節だよ人生は」で同賞最優秀歌唱賞を受賞し「レコード大賞3冠」を達成。ほかに「望郷じょんから」など。

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