【細川たかし 我が道24】日本語の歌を待ちわびる人々 歌いながらこぼれ落ちた涙

[ 2025年6月25日 07:00 ]

ブラジル・サンパウロ公演で苗木をプレゼント
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 最初に海外でコンサートを行ったのは1982年1月。「お正月大演歌ショー」と題して米国のハワイで行いました。同じ北海道出身で、「帰ってこいよ」がヒットした松村和子さんを連れて行きました。まだレコード発売前だった「北酒場」を異国のステージでお披露目したことを覚えています。

 85年にロサンゼルスとサンフランシスコでもコンサートを行いましたが、最も覚えているのは89年8月のブラジル公演です。デビュー15周年の年で、尊敬する美空ひばりさんが亡くなった直後だったということもあって鮮明に記憶にあります。妻の和子だけでなく、当時15歳だった長男の譲も同行。親子3人で初めて行った海外公演でした。

 初めて行ったブラジルは、ただただ遠かったという印象です。ロサンゼルスで給油。そこからサンパウロまで、また同じぐらいの時間がかかるフライトでした。到着すると現地は冬でした。寒々しい景色の上、当時のブラジル経済は最悪で、ハイパーインフレの最中。日本円を両替すると、輪ゴムで束ねられた何十枚もの現地紙幣(当時はクルザード)が渡されました。レートが毎日変動するので、1万円が何クルザードなのか、結局分かりませんでした。治安も悪く、銃をむき出しにした現職の警官が私のボディーガードのアルバイトをしていました。トイレまで付いて来るので、驚くと同時に、本当に迷惑だったことを覚えています。

 アニエンビー劇場という、かつて美空ひばりさんも公演を行った会場でのステージでした。丸2日かけてアマゾンの奥地からサンパウロに出て来たという日系人2世をはじめ、日本の歌、日本語の歌を待ちわびていた人たちで約3000の客席は埋まりました。そうした客席の気持ちは、ステージ上の私にも伝わりました。いつも以上に歌に力が入ります。気が付いたら、歌いながら目から涙がこぼれ落ちていました。これが海外公演なのかと実感しました。

 95年12月には日本語が解禁される直前の韓国・仁川で日本語で歌ったり、97年6月には現地の日本人会が主催したチャリティーコンサートを北京の21世紀劇場で行いました。ちょうど香港が中国に返還されるタイミングでした。北京の街の夜空に花火が打ち上げられる、香港返還のお祭り騒ぎも体験しました。この時の公演チャリティー収益金で中国東北部の錦州に小学校が建てられました。

 実を言うと、あまり旅行は好きではありません。普段仕事で地方に行っても、まず観光をしないタイプです。全国津々浦々まで行きましたが、駅または空港から公演会場とホテルしか行きません。海外でも、中国に行った時に万里の長城に上ったのが唯一の観光体験でした。

 しかし、異国にいる日本人の前で歌うことは得難い、貴重な経験でした。故郷から離れて見るからこそ、日本の良さを再確認できるのでしょう。そういう方々の前で歌うことは、まさに鏡を見ているようで勉強になりました。

 ◇細川 たかし(ほそかわ・たかし)1950年(昭25)6月15日生まれ、北海道出身の75歳。札幌・ススキノのクラブ歌手時代にスカウトされ、75年4月に「心のこり」で日本コロムビアからデビュー、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞。82年「北酒場」、83年「矢切の渡し」で史上初の日本レコード大賞2連覇。84年「浪花節だよ人生は」で同賞最優秀歌唱賞を受賞し「レコード大賞3冠」を達成。ほかに「望郷じょんから」など。

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