【細川たかし 我が道10】長男誕生直後に人生の転機 妻に背中を押されて勝負の1年へ

[ 2025年6月11日 07:00 ]

妻・和子と長男・譲を東京に呼び寄せたのはデビューから1年後でした
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 クラブ歌手として、ススキノのクラブで何軒も掛け持ちして歌っていた1972年の秋。仲間の歌手の身内に不幸があり、ステージの代役を頼まれたことがありました。店の名前は忘れましたが、代役で行った店で働いていた女性に一目ぼれしました。

 「和子」という、美唄出身の女性です。ハスキーな声の持ち主で、やたら明るくて、よく気が回る人でした。好きになってしまうと、後戻りはできません。1歳年上の彼女は「年下の男には興味がない」と言っていました。本当は22歳でしたが、2歳サバを読み「24歳だ」と言い張って交際を始めました。しばらくは、それで通しました。

 クラブ歌手として稼ぎまくっていたので、経済的な余裕はありました。交際3カ月で結婚を決めました。札幌のパークホテルに150人ぐらい招待して披露宴も開きました。互いの両親や家族にやっと、嫁さんと今の自分を披露できる機会が来ました。フルバンドも入れた盛大な宴でした。クライマックスは、ずっと心配をかけ通しだった母・ヨミの前で、森進一さんの「おふくろさん」を歌ったことです。やっと正々堂々と歌える、そんな思いでした。

 74年8月。長男の譲(ゆずる)が生まれました。夕方、クラブでリハーサルをしている最中に「生まれた」という連絡が来ました。特別な感慨はありませんでしたが、責任感が増したのは間違いありません。ほぼ同じ時期に人生の転機が訪れました。東京からスカウトが来たのです。

 ススキノ最大のナイトクラブ「20世紀」には、元「ザ・スパイダース」のギタリストで、沢田研二さんのバンドマンの音楽プロデューサー・井上堯之さんがよく来店していました。その知人の高田と藤井という2人が店に現れました。競馬の「札幌記念」のついでに店に寄ったというのが真相のようですが…。2人が私の歌をテープに録(と)り、東京に持って帰ると、反応したのが「バーニングプロダクション」の周防郁雄社長でした。まだ設立3年目の新興事務所です。すぐに周防社長の意向で、飛行機の往復チケットを持ったスカウト2人が「社長が細川さんに会いたがっています。一緒に東京に来てください」と迎えに来ました。東京見学のつもりで遊びに行くと、大歓待を受けました。すると今度は「レコード会社のオーディションを受けさせるから、すぐに上京してください」と話がトントン拍子で進んでいったのです。

 仲間の「アローナイツ」が前年に「中の島ブルース」でデビューし、多少うらやましい気持ちもありました。しかし、私は結婚して長男も生まれた直後。生活も安定していたし、無理に東京で勝負する切迫した事情もありません。そんな時、妻の和子が「1年だけやってみて、芽が出なかったら札幌に帰ってくればいいじゃない。私たちのことは気にしないで勝負してみたら?」と背中を押してくれたのです。

 ◇細川 たかし(ほそかわ・たかし)1950年(昭25)6月15日生まれ、北海道出身の74歳。札幌・ススキノのクラブ歌手時代にスカウトされ、75年4月に「心のこり」で日本コロムビアからデビュー、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞。82年「北酒場」、83年「矢切の渡し」で史上初の日本レコード大賞2連覇。84年「浪花節だよ人生は」で同賞最優秀歌唱賞を受賞し「レコード大賞3冠」を達成。ほかに「望郷じょんから」など。

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