【細川たかし 我が道9】人呼んで「ススキノの森進一」 一晩で7軒店を掛け持ちしたことも

[ 2025年6月10日 07:00 ]

【細川たかし 我が道9】

クラブでのステージを終えて、屋台でラーメンをすする
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 一人暮らしを始めたのは北海道大学近くの「大雪荘」というアパート。四畳半の部屋でした。家賃3500円。「女王蜂」というキャバレーと「銀嶺荘」という健康ランドでのステージでの月収がそれぞれ1万円ずつでした。ススキノにあるキャバレーが終わるのが11時半。最終電車にぎりぎり間に合う時間でした。しかし、15円の電車代をケチって1時間ぐらい歩いて帰ることもありました。

 アパートの1階には食堂があり、カレーライスが30円、ラーメンが50円でした。カレーに添える赤い福神漬けが無料食べ放題だったので、よく大盛りライスを福神漬けで食べました。今も福神漬けが大好物です。ほかに、北海道限定商品だそうですが「ダブルラーメン」という1袋に2玉の麺が入っているインスタントラーメンがあり、これを箱で買い、卵を入れて食べていたのが思い出の味です。

 幸い、その後仕事がどんどん舞い込みました。クラブ、ミニクラブ、ナイトクラブなど、歌える場がどんどん増え、最大で一晩7軒も店を掛け持ちして歌っていました。当然、羽振りも良くなりました。20歳の時に自動車運転免許を取り、当時若者に人気があった日産ローレルのハードトップを買いました。120万円ぐらいしたはずです。その車で店から店へ移動していました。それだけではありません。「マイ・マイク」も持っていました。「SHURE」社という米国の音響メーカーの「58(ごっぱち)」と呼ばれるボーカル専用マイクです。7万円ぐらいした私専用マイクを店の音響装置につないで歌っていました。今思うと、かなり増長した若造でしたね。

 整備工を辞めてクラブ歌手になったことを両親もうすうす知っていたはずですが、自分からは言えませんでした。稼いだ金を両親に渡すことができたのは、歌手デビューした後のことです。当時はすっかり夜型の生活でした。夜中2時半まで店で歌ってから飲みに行く毎日です。冬場は、寝ずにスキー場に向かいました。スキーを担いで黙々と登ります。誰の足跡もつけていない、まっさらな新雪のゲレンデを滑り降りる爽快感は格別でした。スキー場のブルドーザーが動き始めるのを見て帰宅、寝ます。昼過ぎに起きて入浴し、夕方にススキノで食事してから7時半に最初のステージに立つ、そんな生活でした。

 1972年の札幌冬季オリンピック。この祭典に向けて、ススキノはどんどん繁栄していきました。街並みはキレイになり、夜の飲食店の数も客も増え、好景気に突入しました。その勢いにも乗り、20歳そこそこの若造は「ススキノの森進一」として闊歩(かっぽ)していました。「20世紀」という、250人ぐらい収容できるススキノ最大のナイトクラブがありました。私より先にレコードデビューすることになった「アローナイツ」と、私の専属バンドがこの店の看板でした。この店で歌っていたことで、私の人生が大きく変わりました。

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