【馬淵史郎 我が道11】明徳で「今を頑張る」と決めた

[ 2026年3月11日 07:00 ]

縁に導かれ、明徳義塾のコーチに就任した
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 1986年(昭61)に社会人の阿部企業の監督として都市対抗に初出場、日本選手権準優勝の結果を出し、在任中に急逝された恩師の田内逸明さんへ義理を果たした思いもあった。いろいろあった会社ともひと区切りをつける意味で監督を退任した。

 やるべきことはやり切った思いがあったから、監督という立場に未練はなかったし、野球に関わるつもりもなかった。松山に帰って、仕事をしっかり頑張ろうと就職した。田内さんの教え子が佐川急便の四国ブロック社長をしていた関係で、社長秘書として勤務した。

 休みはパチンコや麻雀の日々。これも楽しかったなあ。給料も45万円くらいあった。独身サラリーマンには十分な額だった。もちろん、忙しい時期には配達も手伝った。

 この時期に明徳義塾から声がかかった。「コーチをやってくれんか」という要請だった。当時の監督は竹内茂夫さん。南宇和や松山聖陵で監督をされて、田内さんとも深いつながりがあった。最初は仕事を始めたばかりだったし、お断りしたんだが、何度も何度も電話がかかってくる。阿部企業でのチームづくりのときに、明徳義塾から選手を採用した縁もあったから、学校長も「来んかい」と連絡を入れてきた。

 「じゃあ一度ノックでもしに行きましょうか」と高知に向かったのが、87年5月のことやった。明徳義塾のグラウンドは高知の横浪半島の山の中。初めて来た人は何にもないから、びっくりする。周りにはコンビニもない。それでも練習場もなかった阿部企業を経験しているから、専用球場があるだけで、野球をするには素晴らしい環境だと感じた。

 5月の土曜日に行って、練習を手伝って、「今晩は一杯やって、泊まっていかんか」と誘われて、高知名物の皿鉢(さわち)料理をごちそうになった。次の日曜日も練習に参加したら、「このまま、ここに住まんか。部屋はあるし、テレビも冷蔵庫も家財道具一式用意してある。残ってくれんか」と説得された。結果的に、ここから40年近い明徳義塾での人生になっていく。

 拓大を卒業してから、いろんな会社にお世話になった。私は基本的には「人生ってのはケセラセラ」という考え方。結局はなるようにしかならない。先を深く考えずに、フラフラと過ごすというイメージを持たれるかもしれない。でも同時に「今を頑張る」というのが自分のモットーだ。「今を頑張る」という点には妥協しない。

 今を頑張ってこそ、その姿を周りが評価して、将来が切り開かれていく。自分に与えられた「今」が明徳義塾に関わることだと、この状況を受け止め、コーチとしてお世話になることを決めた。恩師につながる縁は切れないし、やっぱり野球が好きだったのだと思う。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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