【平野謙 我が道9】監督交代でつながった選手生命 さらにプラスに働いたのが…

[ 2025年10月9日 07:00 ]

選手生命を救ってくれた近藤貞雄監督
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 外野手に転向した入団2年目の1979年(昭54)は、ウエスタン・リーグ35試合に出て77打数21安打、打率・273の成績を残した。

 率はそこそこだったが、本塁打は0本。パワーヒッターじゃない。これでいいのか。壁にぶち当たり、どうしたらいいか分からなくなって各球団を見渡したら、巨人の松本匡史さんや広島の高橋慶彦のように、どこにもスイッチヒッターがいる。中日にはいない。やったらいいかなと思った。

 3年目の80年、オープン戦が始まる前、2軍打撃コーチの広野功さんの前で左で振ってみたら「いけるんじゃないか」と言われた。「いいですか?じゃあスイッチやりますよ」と言って新たな挑戦が始まった。

 「右がダメだから…」という軽いきっかけで始まったスイッチ転向。この年のウエスタン・リーグのデータは見つからなかったが、60試合ほど出て打率は2割7分くらいだったと思う。

 それでも1軍からは声がかからなかった。投手として入団して外野手、さらにスイッチに転向したとはいえ、大学を出て入団して3年間、一度も1軍に上がっていない。そろそろ整理されても仕方ないところだ。

 実際に戦力外のリストに入っていたらしい。ところが、そのリストが球団上層部まで届く前に、監督の中利夫さんが退任することになった。後任に決まった近藤貞雄さんはそのリストを見て、それぞれどんな選手か説明を聞いた上で、「平野はもう1年残そうか」と言ってくれたという。

 近藤さんは中日の監督を3年務めた後、85年に大洋(現DeNA)で俊足の高木豊、加藤博一さん、屋鋪要を並べる「スーパーカートリオ」を売り出した。機動力を重視する監督。平野は走れてしっかり守れるという報告を受け、使い道があると思ってくれたようだ。

 中監督が続投していたら、さらに後任が近藤さんじゃなかったら、おそらく僕のプロ野球人生は一度も1軍に上がることなく3年で終わっていた。監督交代でつながった選手生命。近藤監督1年目の81年はオープン戦から使ってもらった。

 開幕1軍を大きくたぐり寄せたのは、星野仙一さんが先発した3月19日の近鉄戦(日生)だった。代走で入って外野守備というパターンが多かったが、この試合は8番センターでスタメン出場。2回の守りだった。

 2死二塁から、目の前に飛んできた藤瀬史朗さんの打球(ヒット)を本塁へ低い軌道のダイレクト返球。二塁走者の小川亨さんの生還を阻止した。近藤監督は「こんな守備するヤツ、1軍に残さんわけにはいかんだろ」と思ってくれたらしい。

 さらに僕にとってプラスに働いたのは元大リーガーの新外国人、チャーリー・スパイクスの存在。外野手で、守備が凄く下手くそだった。

 ◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。

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