村田兆治さん死去 72歳 自宅で火災発生 「マサカリ投法」で通算215勝

[ 2022年11月11日 07:54 ]

村田兆治さん
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 11日午前3時10分ごろ、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅の2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。

 午前3時13分に近隣住民が119番通報した。村田さんは搬送時に意識不明の重体で、午前5時57分に都内の病院で死亡が確認された。死因は一酸化炭素中毒とみられ、今後解剖される見通し。

 火災が発生した自宅は地上2階、地下1階。村田さんは火災発生当時、自宅に1人でおり、2階部分で発見された。建物2階部分の40平方メートルが焼け、1階部分はほぼ燃えていなかったという。

 村田さんは今年9月、羽田空港で保安検査員の女性の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕。その後釈放されたが、10月には沢村賞の選考委員を辞退していた。

 村田さんは1949年(昭和24年)、広島県生まれ。67年、福山電波工高(現・近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現・ロッテ)に入団。69年に6勝をマークし、71年には後に代名詞となる「マサカリ投法」で投げるようになり、ロッテが日本一になった74年にはシーズン12勝、日本シリーズ第6戦で完投勝利を収め、胴上げ投手に。シリーズ最優秀投手賞を受賞した。

 75、76年にパ・リーグの2年連続最優秀防御率、81年に開幕11連勝で最多勝のタイトルを獲得するなどリーグを代表する投手だったが、82年に肘を痛め、83年に渡米しフランク・ジョーブ博士による左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受けた。

 85年に開幕から11連勝するなど、17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。日曜日に先発しては白星を重ねることから「サンデー兆治」と呼ばれた。89年5月13日の対日本ハム戦で通算200勝を達成。この年、3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。

 90年に引退。22年の選手生活での通算成績は604試合に登板し、215勝177敗33セーブ、防御率3.24だった。通算148の暴投数は日本記録。その生きざまを表現した「昭和生まれの明治男」は90年の新語・流行語大賞の特別部門人語一体・語録賞に選ばれた。

 引退後は解説者、評論家を経て95年から3年間、ダイエー(現・ソフトバンク)の1軍投手コーチを務め、05年に野球殿堂入り。野球を通しての離島振興をライフワークとし、離島の中学校による野球大会「離島甲子園」を開催。引退後も140キロの速球を投げていた。

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